持統天皇と道教
〜吉野の盟約とアマテラスの誕生〜
持統天皇と道教
2024年末に訪問した奈良県明日香村の「野口王墓」。
天武天皇と持統天皇を合葬した「八角墳」だ。
長らく被葬者不明の「不分明陵」とされ、一時は「武烈天皇陵」の説もあったそうだが、元禄時代には天武・持統合葬墓に決定。
ところが何故か幕末には「文武天皇陵」に改められ、結局は明治14年に発見された古文書が正史と一致して、ようやく天武・持統陵に指定された、なんて経緯があるそうだ。
(出典『律令国家前夜』前園実知雄)
野口王墓で有名なのが、持統天皇が造営した「藤原京」の大極殿の南方、中軸線上に位置していること。
その理由については、斉明・天武・持統のファミリーが傾倒していた中国思想「道教」にもとづく———というのが道教研究の第一人者・福永光司さんの『日本の道教遺跡を歩く』(2003)。
そもそも飛鳥時代半ばに突如あらわれた「八角墳」は、舒明・斉明・天智・天武・持統・草壁・文武と続く、いわゆる?「押坂王家」が造営した墳墓形態で、夫の舒明天皇のお墓を妻の斉明天皇が八角形につくったことに始まるらしい。
日本書紀には斉明天皇が「両槻宮(ふたつきのみや)」なる道教寺院をつくったり、「四方拝」なる道教儀礼を行ったりの記録が残っていて、この時代に多い謎の石造物も、道教目線でなら容易に理解できるとのことだ。
福永さんによれば、押坂王家の八角墳の起源には、古代中国の皇帝が「明堂の制」「封禅の制」といった儀式を行った「八角方壇」が考えられるのだという。
それらは『漢書』や『後漢書』にも載るが、日本の飛鳥時代と並行する『旧唐書』にも、唐の高宗の封禅の儀(天のまつり)で「方壇八隅」を用いた———と出てくるのだとか。
中国の皇帝がなんで八角にこだわったかの理由は簡単で、古代中国では、全宇宙を八角形として捉える思想があったから。神武天皇の「八紘」や、古事記序文の「八荒」もその影響を受けているそうだ。
ちなみに「大王(おおきみ)」を「天皇」に変えたのは天武天皇だという説が有力らしいが、道教の最高神「天皇大帝」がそのルーツなんだとか。
(高御座 出典:産経新聞)
他に天皇にゆかりのある八角形として福永さんが挙げるのが、京都御所・紫宸殿にある「高御座(たかみくら)」中段の八角屋形。
写真は、大正天皇の即位の際に復元した玉座で、タカミクラは『続日本紀』文武天皇即位の宣命からはじまって、重要な儀式には度々言及されるそうだ。
その背景には「天皇を神と同一視する思想」の成立があって、たとえば『万葉集』で「大君」にかかる枕詞「やすみしし」は「八隅知し(八方を統治)」の意だし、「崩(かむあが)る」は「神あがる」で、いずれも道教思想が根底にあるのだとか。
というわけで、なぜ天武・持統陵(野口王墓)が藤原京大極殿の真南にあるのかへの福永さんの答えはこうだ。
藤原京南のこの八角墳はタカミクラに象徴される大極殿であり、皇居なのである。その八角墳が皇宮を意味する大内を天皇陵の名とした深いわけがあったのだ。
持統天皇はこの地に天武天皇のために死後の宮殿をつくり、後に自らもその宮殿に入ったのである。
「吉野の盟約」と道教
(吉野川 写真AC)
日本書紀によると679年、天武天皇は皇后と年長の4人の皇子(高市・草壁・大津・忍壁)と天智の2人の皇子(川島・志貴)を連れて、壬申の乱の前に暮らしていた吉野の地に行幸している。そこで天武天皇は、皇子たちに今後は皇位継承の件で争わないように、誓わせたのだという(吉野の盟約、吉野の会盟)。
だが、なぜ都である飛鳥でなく、山深い吉野なのか。
吉野には、天武天皇が崩御したあとの持統天皇が(称制含む)11年間になんと31回も行幸した記録があるわけだが、福永さんは、斉明・天武と同じように道教にハマっていた持統天皇は、そこで「道教思想に基づく祭天の儀式」を行っていたんじゃないかとお考えだ。
古代中国では天子は山川の神を祭ることで神仙境に行けると信じられ、秦の始皇帝や漢の武帝も盛んに祭った。
そのような祭祀を「望祭(ぼうさい)」といい、そこから後に「円丘」「方沢」の大地の祭りが行われるようになり、山と水をワンセットにして場所が決められた。
名山と名川が必要なのである。
つまり、名川「吉野川」と名山「青根ヶ峯」が揃う吉野の地は、道教が説く不老不死の世界「神仙境」に最も近い場所としてイメージされたから、その信奉者である持統天皇が通い詰めたのだろうと。
福永さんによれば、吉野の会盟が8人で行われたことにも意味があって、道教が尊ぶ「八仙信仰」の8人の賢人に自分たちをなぞらえることで、神仙境の八仙が最高神「天帝」に誓いを立てる儀式として成立させる意図が、天武・持統の二帝にはあったのだろうという。
会盟が行われた5月5日は、道教では「陽から陰への分岐点」とされる日に当たり、こちらも意識して選んだのだろうとのことだ。
ところで、以上は中国思想の専門家から見ての話で、斉明・天武・持統の治世に道教の影響を見ない歴史学者はもちろんいる。
例えば義江明子さんの『女帝の古代王権史』(2021年)によれば、持統天皇の吉野行幸は「壬申の乱の記憶を人々のなかに呼び起こし、そこに自分を位置づけるために」30回も繰り返されたのだという。
壬申の乱で顕著な活躍を示せなかったという持統の致命的な弱点は、天武王権発祥の地吉野への行幸、乱の功臣に対する顕彰をくり返すことで、次第に覆い隠されていく。
持統による”記憶”の算奪は着実に進み、壬申の乱を天武とともに先頭に立って戦い抜いたかのような自画像が創り出され、『書紀』持統称制前紀に結実するのである。
ま、当時は宗教と政治は今よりもっと渾然一体としていたと思われるわけで、一般人のぼくらとしては、福永説も義江説も両方正しいんだろう———と考えとけばいいような気がする。
持統天皇の即位
(藤原京 橿原市公式サイト)
持統天皇がきわめて政治的な人間だったことは、690年の「即位儀」から分かるようだ。義江さんはそれを「従来と多くの点で異なる画期的なもの」だと書かれている。
四年の春正月の戊寅の朔に、物部麻呂朝臣(石上麻呂)が大盾を立てた。
神祗伯中臣大嶋朝臣(藤原大嶋)が天神寿詞(践祚の日に奏する祝詞)を読んだ。
それが終わって、忌部宿禰色夫知が神璽の剣と鏡とを皇后(持統天皇)にたてまつり、皇后は皇位におつきになった。
公卿・百寮は整列して一斉に拝礼し、手を拍った。
己卯(二日)に、公卿・百寮は、元日の儀式どおりに天皇を拝し、丹比嶋真人と布勢御主人朝臣とが、即位を祝うことばを申し上げた。
(以下略)
(『日本書紀・下』中公文庫)
持統天皇即位以前の「画期」といえば継体天皇の即位だが、あのときは大伴・物部・巨勢ら群臣が複数の候補者から継体を選び、「天子の鏡剣の璽符(みしるし)」を捧げて即位を請う———という流れだった。
すなわち「かつてのレガリア奉呈は、即位以前に行われる継承者決定の儀式であり、”群臣推戴”の象徴だった」。
ところが持統天皇の場合は、「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を受けて神から統治を委任された「現御神(あきつみかみ)」となった後で、臣下から「神璽」を奉られている。順番が逆にされたうえ、群臣筆頭は即位の「翌日」に祝賀を述べるだけの存在になっている。
つまりここで史上初めて、天皇即位の根拠はいにしえの「天孫降臨」にある!と確定したということらしい。
で、そうなると必然的に求められるのが、天孫に地上の支配を命じて降臨させた「皇祖神」、アマテラスだ。
皇祖神の誕生
(三重フォトギャラリー)
日本書紀を読むかぎり、5世紀後半の雄略天皇の時代には、伊勢が宗像や住吉のような国家祭祀を受けていたのは確かなことのようだ。
ただ、5〜6世紀の「伊勢大神」がまだ「皇祖神」じゃなかったように思われる理由が、欽明天皇と敏達天皇が送った「斎宮(皇女)」が相次いで皇子に強姦されて、解任されたという事実。
彼らにとって、そこは何よりも大切な皇祖神が祭られている、神聖不可侵な場所ではなかったのだろう。
7世紀に入ってからも、舒明天皇から天智天皇の半世紀には斎宮が送られず、天智天皇にいたっては伊勢の「神郡」を20郷から16郷に削ってしまったのだという。そんなひどい目に合わされる皇祖神はいない。
一方、平安末期に成立した『太神宮諸雑事記』なる記録によれば、20年に一度とされる「式年遷宮」が始まったのは、持統4年(690年)とのことで、そんなら内宮の創建は670年か?と思えば、その年は壬申の乱の2年前という天智天皇の御世だったので、ちと早い。
674年には壬申の乱に勝った天武天皇の「大来皇女」が斎宮として伊勢に派遣され、692年には持統天皇が伊勢に行幸・・・とだんだん距離が縮まっていくようにも見えるが、692年5月に奉幣を受けた神社が「伊勢・大倭・住吉・紀伊」、12月には「伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足」という記録からは、伊勢は筆頭ではあるが特別ではない印象あり。
さらに悪いことには、692年の「伊勢大神」は持統天皇に「税金免除の嘆願」などしていて、皇祖神だとしたら少々情けないような印象もあり。
ところがこれが、持統天皇の孫・文武天皇の時代になると「伊勢大神宮及び諸社」みたいな表現がでてきて、もう完全に特別扱い。
なのでやはり、『続日本紀』の文武2年(698年)に載る「多気大神宮を度会郡に遷した」が皇大神宮の成立———という古くからの説を、支持せざるを得ないか。
【関連記事】敏達天皇の「日祀部」 〜天照大神と伊勢大神〜
持統天皇とアマテラス
(明日香村埋蔵文化財展示室にて)
697年8月、持統天皇はまだ15才の孫・軽皇子に譲位して、史上初の「太上天皇(上皇)」になった。
一説によると皇祖神アマテラスは持統天皇をモデルにしているというが、なるほど文武天皇即位の宣命には、持統は文武に皇位を「授けた」とあって、記紀の天孫降臨神話を彷彿とさせる。
義江さんによれば、高天原神話が完成したのは、持統天皇の頃だろうということだ。
高天原にはじまり、遠い先祖の代々から、中頃及び現在に至るまで、天皇の皇子が次ぎ次ぎにお生まれになり、大八嶋国をお治めになる順序として、天つ神の御子のまま、天においでになる神がお授けになったとおりに、取りおこなってきた天つ日嗣の高御座の業(天皇の位にある者の任務)であると、現御神として大八嶋国をお治めなされる倭根子天皇(持統天皇)が、お授けになり仰せになる、尊く高く広く厚い大命を、受けたまわり恐れかしこんで、このお治めになる天下を調え平げ、天下の公民を恵み撫でいつくしもうと仰せられる、天皇の大命を、皆よく承れと仰せられる。
(『続日本紀(上)』講談社学術文庫より抜粋)
ちなみに持統天皇の即位礼では、中臣氏と忌部氏が式を進めているが、日本書紀の神代・正伝でアマテラスを「天石窟」から出すための祈禱を行ったのは、中臣氏の祖「天児屋命」と忌部氏の祖「太玉命」。
アマテラスの復活=持統天皇の即位ということか。
———といった案配で、文武天皇の頃には伊勢の皇大神宮で皇祖神の祀りが始まっていたようだが、宮廷内でも同じだったかというと、ビミョーなものがあったらしい。
古代史家の大和岩雄さんによると、文武天皇の子・聖武天皇の即位の宣命に登場する「皇親」はアマテラスではなく、カミロキ・カミロミなる男女二神なのだという。
手元の『続日本紀』(宇治谷猛)だとなぜか「男神・女神」に意訳されているが、原文にはこうある。
「高天原〈 爾 〉神留坐皇親神魯岐・神魯美命、吾孫将知食国天下・・・(高天原に神留り坐す皇親カムロキ・カムロミの吾が孫の知らさむ食国天下と・・・)」
聖武天皇の即位の宣命を決めた議政官には、皇族筆頭の長屋王をはじめ、藤原不比等の子・武智麻呂と房前も入っているわけで、要は朝廷あげてアマテラスを「無視している」と大和さんはいわれる。
そして聖武天皇に続く、孝謙天皇と淳仁天皇の宣命もやはり「皇親」はカムロキ・カムロミで、アマテラスではなかった。
アマテラスが皇祖神として宮廷で認識されていくのは、もっと後の平安時代には入ってから———なんだそうだ。
【関連記事】アマテラスは皇祖神か