出雲神話⑮「阿須伎神社」のアジスキタカヒコネは出雲の神か
阿須伎神社のアジスキタカヒコネ
出雲市大社町で「阿遲須伎高日子根命(アジスキタカヒコネ)」を祀る「阿須伎(あすき)神社」(2022秋参詣)。
風土記の時代には、出雲郡に官社11、国社29もの阿須伎神社があったようだが、今は全て合祀されてこちらの一社だけが残ってるようだ。
祭神のアジスキタカヒコネは記紀に登場する神で、親友アメワカヒコの葬儀に駆けつけたところ、その容姿があまりにアメワカヒコに似ていたため、遺族が故人が戻ってきたと大喜び。
それを見て、死者と間違えるんじゃねー!とブチ切れたアジスキタカヒコネが喪屋を壊してしまうという、不思議なエピソードの主人公だ。
アジスキタカヒコネを祀る大きな神社
記紀での出番はこれだけだが、アジスキタカヒコネはどういうわけだか、いくつかの大きな神社の主祭神に祀られている。
○まず奈良県御所市の名神大社「高鴨神社」。
こちらは全国のカモ系(鴨、賀茂、加茂)神社の総本社だという。
○南を見れば、高知市の土佐国一の宮「土佐神社」が、アジスキタカヒコネを祀る。
○北は福島県白河の陸奥国一の宮「都々古別神社」で、アジスキタカヒコネが祀られている。
錚々たるメンバーだ。
古事記に載る大国主神の「系譜」によれば、アジスキタカヒコネは大国主神が「宗像三女神」のタキリ姫との間にもうけた子だとされるが、その割りには当の出雲の「阿須伎神社」は他に比べてかなり見劣りしている。
アジスキタカヒコネは本当に「出雲の神」なのか、疑問が湧いてくる。
(高鴨神社)
出雲国風土記のアジスキタカヒコネ
確かにアジスキタカヒコネの名は、出雲国風土記には何度もでてくる。それも古事記の系譜と同じく、大穴持(オオクニヌシ)の「御子」としてだ。
順に列挙してみれば、こう。
賀茂の神戸。
天の下をお造りになった大神の命の御子、阿遅須枳高日子の命は葛城の賀茂の社にご鎮座している。この神の神戸である。
だから、鴨といった。正倉がある。
神名樋山。
(略)古老が伝えて言うことには、阿遅須枳高日子の命の后、天御梶日女の命が、多忠の村に来られて、多伎都比古の命をお産みになった。(以下略)
塩冶の郷。
阿遅須枳高日子の命の御子、塩冶毘古の命がご鎮座していた。
だから、止屋といった。
高岸の郷。
天の下をお造りになった大神の御子、阿遅須枳高日子の命が昼も夜も、きつくお泣きになった。
そこで、そこに高床の建物を造って、住まわせられた、そして高い梯子を立て、(世話係を)登り降りさせてお世話した。
だから、高崖といった。
三津の郷。
大神大穴持の命の御子、阿遅須伎高日子の命が、おひげが八握ほどにも伸びるまで、昼も夜も泣くばかりで、話すことができなかった。
その時、御親の大神が、御子を船に乗せて多くの島々に連れめぐって、心をなごませようとされたが、やはり泣き止むことはなかった。(以下略)
(『風土記・上』角川ソフィア文庫)
ただ気になるのは、風土記には成人したアジスキタカヒコネ自身の行動が、ひとつも記載されてない点だ。
幼少時代のアジスキタカヒコネは記紀のスサノオのように泣いているだけで、后と子はいたというが、今は大和葛城の「賀茂の社」つまり高鴨神社に鎮座しているというのが、アジスキタカヒコネについての全てだ。
(土佐神社 写真AC)
出雲国造神賀詞のアジスキタカヒコネ
もうひとつ、「出雲国造神賀詞」にもアジスキタカヒコネの名前が見える。
奈良・平安の時代に、代替わりした出雲国造が上京して天皇に奏上した祝詞のことだが、その中に「国ゆずり」をした大穴持が、自分の和魂と御子たちを皇室守護のため大和の神奈備に配置した、という件がでてくる。
そこではアジスキタカヒコネは「葛木の鴨の社」すなわち高鴨神社に鎮座していると、出雲国造は言う。
該当部分だけ引用すればこう。
すなはち大穴持の命の申したまはく、『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂をうなて(の神奈備)に坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。
(出典「神話と昔話ー三浦佑之宣伝板」)
「出雲国造神賀詞」で気になるのが、大穴持の御子に「事代主(コトシロヌシ)」がいることだ。
前回の記事でみたように、コトシロヌシは出雲国風土記には全く登場せず、大和葛城の神であることは「古代史研究家の間ではすでに定説」だとまで言われる存在だ。
(『日本の神々 神社と聖地 3』)
コトシロヌシが出雲の神ではないのなら、アジスキタカヒコネも同様である可能性は、簡単には否定できないんじゃないだろうか。
(都々古別神社)
出雲国造とアジスキタカヒコネ
そもそも、アジスキタカヒコネを大穴持(オオクニヌシ)の御子だという風土記と神賀詞に共通するのは、それらを作ったのがいずれも「出雲国造」ご本人だということだ。
つまりは、出雲国造の世界観において、アジスキタカヒコネは出雲の神になる。
実際、皇室の正史「日本書紀」では、正伝でも一書でも、大己貴神と味耜高彦根命に親子関係があるとはどこにも書いてない。
てか、味耜高彦根命がどこの神とも書いてない。
この点は「古事記」も半ば同様で、本文である天若日子の葬儀の場面では、阿遅志貴高日子根神と大国主神や出雲との関係が語られることはない。
ただ大国主神の「系譜」にだけ、大国主神の子だと記してあるわけだが、そこには阿遅志貴高日子根神の別名が「迦毛(かも)大御神」だとも書いてある。
(阿須伎神社参道からみた出雲平野)
風土記「逸文」のアジスキタカヒコネ
アジスキタカヒコネが登場する風土記は、出雲国のものだけではない。播磨国風土記と摂津国の「逸文」にもアジスキタカヒコネはでてくるが、いずれも出雲への言及はない。
邑日野といった理由は、阿遅須伎高日古尼命の神が新次の社におられて、神宮をこの野に造られた時、大輸茅を刈りめぐらして垣とされた。
だから、邑日野と名づけた。(播磨国風土記)
摂津国風土記にいう。
大小橋山。松・杉は、建築材にすると良い。また茯苓・細辛が採れ、珍しい石や金玉なども産出する云々。
昔は高い山であったので、山頂からは武庫の港までも見えたという。
味耜高彦根命が、この山に天降られた時から味耜山と名付けたということである。
また、土佐国風土記の逸文は、「一説」としてアジスキタカヒコネをオオクニヌシの「御子神」だと書くが、正史の「続日本紀」は同じ神を「高鴨の神」だと明記している。
土左国風土記に記すこと。
土左の郡。郡の役所の西の方角へ行くこと四里の所に土左の高賀茂の大社がある。
その祭神の名を一言主の尊だとしている。その祖先神はよくわからない。
一説では大穴六道(おおなむじ)の尊の御子神である味鉏高彦根の尊であるとしている。
(※以下「続日本紀」天平宝字8年)
十一月七日 再び高鴨の神(高鴨阿治須岐託彦根命)を大和国葛上郡に祠った。
高鴨神について法臣(僧位)の円興とその弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。
昔、大泊瀬天皇(雄略帝)が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐国に流しました。
これは私達の先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです〈分注、今、以前の記録を調べたところが、このことは見当らなかった〉。
ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。
(『続日本紀・中』講談社学術文庫)
ということで、アジスキタカヒコネが出雲の神である可能性はほぼゼロのように、ぼくには思えてきた。正史が書くように、それはきっと大和葛城の、鴨の神さまなんだろう(父?はおそらく三輪のオオモノヌシ)。
ちなみに風土記が書くように、出雲国造の出身地の意宇郡には「鴨神(高鴨神社)」が徴税できる「神戸(かんべ)」があったようだ。
意宇郡の人には「鴨」は案外、身近なものだったのかも知れない。
(出典『解説 出雲国風土記』島根県古代文化センター/2014年)
アジスキタカヒコネの「歌謡」
それにしてもアジスキタカヒコネとは一体どういう神さまだったのか。
記紀には本文以外に「歌謡」も収録されているが、当然のことオオクニヌシや神武天皇、日本武尊などスーパースターの条に多くでてくる。
それはオトタチバナの辞世の歌が、元は農民の労働歌(谷川健一)だと考えられているように、古代の人たちが広く共有したものだったんだろう。
そんな歌謡の一つに、なんとアジスキタカヒコネを讃えたものがある。しかもお堅い日本書紀が、二曲続けて収録していたりする。
時に、味耜高彦根命のすがたが光りかがやいて、二つの丘、二つの谷にわたって照り映えた。
そこで天稚彦の喪に集まった人々はつぎのような歌を歌った。
〔ある説では、味耜高彦根命の妹の下照媛が、この丘々や谷々に照り映えるのは味耜高彦根命のお姿であることを、人々に知らせようと思われた。そこでつぎの歌を歌われたと伝える。〕
天なるや 弟織女の 頚がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根命
(天に輝く織女星の、み頚にかけた首飾りの連珠〔すばる星〕の美しい穴玉よ。そのようにみ谷二つにわたって飛び行きつつ、美しく輝く味耜高彦根命よ)
また人々は歌った。
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵
(天ざかる夷つ女〔田舎女〕が、瀬戸を渡って魚をとるために石川の片淵に網を張り渡すが、その田舎女が網目を引き寄せるようにこちらに寄っておいで、石川の片淵よ)
この二首の歌はいま夷曲(ひなぶり)と名づける。
(『日本書紀・上』中公文庫)
アジスキタカヒコネがどんな神だったのかは分からないが、こうして歌に残されるほど人々によく知られ、愛された神だったようだ。
ただその歌を合唱したのは、出雲ではなくて大和葛城の人だったのだろう。
「その⑯「出雲国風土記のフツヌシ」につづく