『偽りの大化改新』中村修也
〜乙巳の変・虚構説〜
大化改新(乙巳の変)への疑問
写真は「十三重塔」で有名な、奈良県桜井市の「談山(たんざん)神社」(2024年末参詣)。
明治時代に定められた、国家に多大な貢献のあった忠臣を祀る「別格官幣社」のひとつで、祭神は大化改新の「黒幕」とされる藤原氏の祖「藤原鎌足公」。
談山神社の公式サイトによれば、法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠会で「中大兄皇子(天智天皇)」と知り合った中臣鎌子は、当社の本殿裏山で蘇我入鹿誅滅の談合をしたのだという。
しかし、大化改新の時点では「鎌足はなんの政治的勢力も有して」いなかったので、仮に「三韓進調」の儀式が催されたとしても、中心になるのは大臣の蘇我入鹿や外交担当氏族であって、「中大兄や中臣鎌足がこの儀式に関与できる余地」はなかった———というのが日本史学者の中村修也さん。
その著書『偽りの大化改新』(2006年)では、大化改新”虚構説”が展開されている。
日本書紀は大化改新を、中央集権国家を目指した中大兄皇子と中臣鎌足が断行したもので、乙巳の変の後に即位した孝徳天皇を「傀儡政権」のように書くが、果たしてそれは本当か。
実際のところ、「この時期における鎌足の内臣就任は疑わしく、鎌足の具体的な行動を示す記事は天智紀までみられない」という声もあるようだ(『飛鳥と古代国家』篠川賢/2013年)。
(写真AC)
そもそも中大兄が世間で言われるような「冷酷なマキャベリスト」だったなら、「大化改新後」「孝徳の死後」「斉明の死後すぐ」という三度もあった即位のチャンスを、みすみす逃すことはないんじゃないか。
中村さんによれば、この点に限らず中大兄をめぐる日本書紀の記述には疑問が多いのだという。「乙巳の変」についても、以下の6点が「おかしな点」「不自然なことがら」なんだとか。
①中大兄は身を危険にさらしてまで入鹿殺害をはかったのに、どうして自分が即位しなかったのか。
②蘇我氏が倒されたのに、どうして皇極女帝は退位しなければならなかったのか。
③軽王子はどのような理由で大王に選ばれたのか。
④中大兄は王族なのに、どうして自ら殺害に加わったのか。
⑤蘇我倉山田石川麻呂は、同じ蘇我氏なのにどうして入鹿殺害に加担したのか。
⑥乙巳の変の際、中大兄の弟の大海人王子はなにをしていたのか。
①なぜ中大兄は乙巳の変後に即位しなかったのか
(桜井市忍阪の舒明天皇陵)
641年に第34代舒明天皇が崩御したとき、次の天皇候補は3人。
まずは舒明天皇と蘇我馬子の娘の間に生まれた「古人大兄皇子」。
それと聖徳太子の子で「山背大兄王」。
そして舒明天皇と宝皇女の子「中大兄皇子」。
しかし、実際に「皇極天皇」として即位したのは中大兄の母親である宝皇女で、もちろん女帝の先輩・推古天皇にならって我が子に皇位を継がせるための「中継ぎ」としてだ。
なので中村さんによれば、643年に斑鳩の上宮王家を襲撃させ、山背大兄王を死に追いやった首謀者は、皇極天皇以外には考えにくいという。
ところが、そんな状況下で行われた乙巳の変で、乾坤一擲の賭けに出て勝利したはずの中大兄は、どういうわけか皇位を母(皇極)の弟の「軽皇子」に譲ってしまう(孝徳天皇の即位)。
これでは「まるで軽皇子のためにクーデターを起こしてあげたようなこと」になるんじゃないか。
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②なぜ蘇我氏が滅んだのに皇極は退位したか
(飛鳥宮跡)
もしも乙巳の変の「クーデターが中央集権化を目指し、蘇我氏の専権を排除する」ことが目的なら、それは入鹿と蝦夷の死で達成されているので、皇極天皇が退位する理由はない。
しかも、そもそもそのために即位したはずなのに、皇極天皇は息子の中大兄に生前譲位していないし、弟の軽皇子を「傀儡」の天皇に即位させるぐらいなら、自分が中大兄の「傀儡」になったほうが皇位の保持には安全だ。
つまり皇極天皇の退位は意味がわからない。
それで中村さんが、その理由として考えられると挙げるのが、次の二点。
A 皇極と蘇我政権は一体化していたので、イメージ払拭のために退位した。
B クーデターの目標に、最初から皇極の退位も含まれていた。
しかしA案は、のちに皇極が「重祚」して斉明天皇に即位したことで理屈に合わない。
B案は、中大兄がクーデターの主役として、母(皇極)から生前譲位された場合にしか成立しない。
・・・だが、もしもクーデターを起こしたのが、皇極退位のあとに即位した軽皇子(孝徳天皇)だった場合は、B案が成立する。
③なぜ軽皇子は即位できたか
(難波宮跡 写真AC)
ということで中村さんによれば、乙巳の変とは「軽王子による大王位の簒奪」を目的としたクーデターなのだという。
そもそも中大兄には、政界における「後ろ盾」である蘇我入鹿を殺害する動機はなく、シンプルに母の皇極から譲位してもらえば「一番安全」に即位できた。
ところが母が退位して軽皇子が孝徳として即位すると、中大兄の立場は入鹿が殺害される前より「不利な状況」になってしまった。孝徳の実子「有馬皇子」が皇位継承者に加わってきたからだ。その時点での中大兄の地位は、単なる一人の皇族に過ぎなかった。
日本書紀は孝徳天皇を中大兄の「かいらい」のように書くが、よく読んで見れば、謀反の疑いで中大兄が殺したとされる「古人大兄皇子」も「蘇我倉山田石川麻呂」も、実際に申し開きの相手にしているのは孝徳であって、中大兄ではない。
孝徳にとっては、古人大兄は中大兄と並んで我が子(有馬皇子)のライバルだったし、腹心だった蘇我倉山田石川麻呂が中大兄とも婚姻を結んで手を組みつつあることにも気がついていた。
つまりは入鹿殺害を含めて、中大兄だと動機が今イチよくわからない誅殺劇は、孝徳天皇を主語にすれば自然とストーリーが見えてくるというわけだ。
(難波宮跡 写真AC)
もちろん、天皇抜きに正月の儀式や祭祀、遣唐使の派遣などは不可能なので、孝徳が中大兄の手で難波宮に「置き去りにされた」なんてのも日本書紀の作文で、「公卿大夫・百官人」が中大兄に従って飛鳥に還ったなんてのも「ありえない」こと。
そして、孝徳崩御のあと、皇極が斉明天皇として重祚したことからみて、中大兄は孝徳政権の「皇太子」ではなかった。
⑤蘇我倉山田石川麻呂はなぜ入鹿殺害に加わったか
(石川麻呂が自害した山田寺の阯 写真AC)
最近では、当時は蘇我本宗家(蝦夷・入鹿)と分家の蘇我倉山田の両家で蘇我氏内部の主導権争いがあって、それに便乗したかちで朝廷内の政権争いが展開した———という解釈があるが、それだと大化改新の大前提である「蘇我氏の専横に対する中央集権国家の建設」というテーゼとは異なる話になってしまう。
だが、一方では中大兄がいわれてきたような「改革派」かどうかには疑問も出ていて、歴史学者の森公章さんは、中大兄は孝徳の急進的な改革には従わない「抵抗勢力」だったと書かれている。
中大兄の経済基盤には、祖父の「押坂彦人大兄皇子」を祖とする「押坂宮」の「押坂部(刑部)」があったが、孝徳天皇が「部民制の廃止」を中大兄に諮問したところ、中大兄は、俺のものは俺のもの、と答えたという。
では、この改革に対する中大兄の姿勢はどうだろうか。私はこの段階での中大兄らは急進的な改革に反対する「抵抗勢力」にほかならなかったと考えている。
中大兄は縦割り的な部民制廃上を諮問した孝徳天皇に対して、仕丁差点基準の変更(もと二十戸にひとりを五十戸にひとりに)分返上には応じているが、自ら所有する皇祖大兄御名入部(皇祖大兄=祖父彦人大兄皇子―父田村皇子〔舒明天皇〕―中大兄と伝領)から入部=仕丁を差点する権限は保持しようとしていた(大化二年〔六四六〕三月壬午条)。
(「天智天皇」『ここまでわかった!日本書紀と古代天皇の謎』森公章/2014年)
⑥乙巳の変のとき大海人皇子はなにをしていたか
この点は直接は日本書紀の「乙巳の変」とは関係ないが、若い頃の天武天皇(大海人皇子)は槍の使い手だったというし、兄と一緒に行動していないのは不思議な話だ。
実はこの件は「④なぜ中大兄は殺害に加わったか」にも関わる話で、中村さんによれば、中大兄「だけ」が自ら入鹿に斬りかかったことで「血の穢れ」を受け、「王の神聖性」の危機にさらされた点がポイントだという。
だが、中大兄にはそうまでして入鹿を殺害する理由がないわけで、つまり実際には、中大兄はあのとき入鹿殺害には参加していない・・・。
どうやら日本書紀は、中大兄は「大王になる資格のある立派な人物」ではない———と言いたい素振りが見え見えで、少なくとも7点は「人格的に大王にはふさわしくない人物」として中大兄をディスっていると、中村さんはいわれる。
a 乙巳のクーデターでみずから蘇我人鹿に斬りかかったこと。
b クーデターの後、即位せずに叔父の軽王子に大王位を譲ったこと。
c クーデターの協力者で、義父である蘇我倉山田石川麻呂を讒言によって自殺させたこと。
d 孝徳大王を難波宮に置き去りにして飛鳥に戻ってしまったこと。
e 実妹の間人王后とのスキャンダルを噂されたこと。
f 孝徳の没後も即位せずに「皇太子」のまま政治をとったこと。
g 有間王子を陰謀によって絞殺刑に追い込んだこと。
んで結論としては、日本書紀を使って中大兄(天智天皇)にマイナスイメージを植え付けようとした人物は、その政権(近江朝)を簒奪して即位した弟の「天武天皇(大海人皇子)」。
といっても「直接的な非難はかえって逆効果になる危険性」があるので、間接的に「偉大な事績の陰に潜む残虐な人格の設定」によって、天智天皇を否定する手法をとったのだろう、という話だ。
この天武による『日本書紀』編纂への関与こそが、大化改新という大いなる虚構を生み出したわけです。
宝王女の中大兄即位への思いが上宮王家を減亡させ、軽王子の王位への執念が乙巳の変を引き起こしました。
しかし、そうした史実は、中大兄にマイナスイメージを付与するために、編者の手によって大幅に加筆修正されてしまったのです。
そしてそこには、後世の歴史研究者が『日本書紀』の行間に隠されたものを見つけ出そうとすると、中大兄の冷酷な「実像」が読み取れるという二段構えの罠が仕掛けられていたのです。
以前読んだ『女帝推古と聖徳太子』(2004年)でも思ったことだが、物証の少ない時代を、日本書紀の論理的矛盾をつくことで理解しようとする中村修也氏のアプローチは、興味深いし、参考になる———というか真似したい(笑)。
もちろん、特定の論者の「信者」になることは避けるべきなんだろうが、中村さんの思考法はもっと学びたいと強く思うところ。
つづく