石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』
〜朝鮮半島からの渡来人が作った日本〜
渡来人が作った国家「日本」?
写真は、聖徳太子生誕の地と伝わる奈良県明日香村の「橘寺(たちばなでら)」(2023年春参詣)。
境内には太子の愛馬「黒駒」の像があったが、平安時代の『聖徳太子伝暦』によれば、太子は黒駒にまたがって富士山頂まで駆け上がり、北陸をまわって3日で帰還したという。
ところで飛鳥時代の馬といえば「厩戸皇子」、または「蘇我馬子」だが(?)、この両者を同一人物だと主張するのが、古代史研究家の石渡信一郎『聖徳太子はいなかった』(1992年)だ。
石渡氏によれば、当時の本当の「大王」は蘇我馬子(=用明天皇=多利思比孤)で、聖徳太子はその「分身」なのだという。
・・・実は石渡氏の本については、1年ほど前に匿名の方から推薦コメントをいただいており、いつか読もうと思ったまま、最近まで忘れてしまっていたのだった。
で最近ようやく読んでみてビックリ、こりゃまた凄まじい破壊力ですなー。
石渡氏の古代史観を一言でいうと、「日本の古代国家は渡来した朝鮮人がつくった国家で、天皇家は朝鮮半島から渡来した」というもの。
おそらく、いわゆる「騎馬民族征服王朝説」の最終形にあたるんだろうか。
その歴史観を、かいつまんで順を追ってみると、以下。
①4世紀初頭(313年)、楽浪・帯方の二郡が滅亡すると、朝鮮半島では古代国家建設の動きがスタートした。
このとき「加羅(伽耶)系集団」が北部九州に渡来して「邪馬台国」を滅ぼすと、瀬戸内海沿岸を東進、4世紀中頃(350年ごろ)には大和に王都を置く古代国家を建設した。
その始祖王は日本書紀がいう「崇神」で、石渡氏が「崇神王朝」とか「東加羅」と呼ぶ国家には、加羅出身の物部氏や中臣氏、九州の磐井なんかが含まれていた。
②4世紀末に崇神が没し、390年ごろ「箸墓古墳」に埋葬された。以後、加羅系大王による前方後円墳の造営が、全国的に展開される。
③460年ごろに渡来してきた「百済」の王子「昆支王(こんきおう)」が、崇神王朝に「入り婿」する形で477年頃、即位。
当時激化していた高句麗の南下に対処するため、崇神王朝(東加羅)の方から百済との修好を進めようとして、百済王子を大王に招いたとのこと。
④506年、入り婿大王「昆支王」が没し、実弟の「継体」が即位。
⑤531年、昆支王の実子「欽明」がクーデターを起こし、継体系から大王位を奪取。
以後、敏達ー馬子ー蝦夷ー入鹿の順で、昆支王系大王が即位していく。
⑥645年、継体系の「中大兄皇子」が逆襲のクーデターを起こして、政権奪回に成功。ここから先はおおむね史実どおりなので、現在の皇室の祖は、百済王子「昆支王」の実弟・継体———ということになる。
なお、安閑・宣化・崇峻・推古・舒明・皇極は、日本書紀が昆支王系大王の存在を隠蔽するために創作した、架空の天皇だという。
辛亥年は471年か、531年か
(稲荷山古墳 写真AC)
といった感じで破壊力満点の石渡説なんだが、議論全体の鍵となるのが、埼玉県行田市の「稲荷山古墳」から出土した鉄剣に刻まれていた「辛亥年」の銘。
定説はこれを471年として、雄略天皇の時代に当てるわけだが、石渡説ではその次の辛亥年、531年のものだとする。その根拠は三点。
①草カンムリのない「獲」の使用例は6世紀に入ってから。
②同じように草カンムリのない「獲」が刻まれた鉄刀が出土した熊本県「江田船山古墳」からは「6世紀後半のものと見られている冠」が出土している。
③稲荷山古墳の発掘を指導した考古学者・斉藤忠は、副葬品の組み合わせから、稲荷山古墳の年代を6世紀前半の後半期、辛亥年を531年と推定している。
※ただ、ぼくなりに手持ちの本をめくったり、数時間ググったりしてみたが、この三点が正しいのかどうかは分からずじまいだった。
(江田船山古墳 写真AC)
んで辛亥年が531年だと何が起こるかというと、まず、稲荷山古墳から出土して、辛亥年471年説に基づいて500年頃の年代に推定されている「TK47型式」なる須恵器の年代が、550年ごろまで繰り下げられる。
そのうえで、土器編年の「期間」は定説のままに、「TK47型式=550年」を起点にして、全体が60年ほど繰り下げられる。すると「布留0式」の初頭に築造されたという「箸墓古墳」の完成は、390年ごろまで繰り下げられる———というわけ。
つまり定説では3世紀後半とされる古墳時代のスタートは、石渡説では4世紀後半からと大幅に遅れることになるわけで、「倭人」なんてのは崇神王朝が渡来・統治するまでズーッと時代遅れの「方形周溝墓」を作り続けていた、無能の集まりということになる。
ただ、石渡説では490年以降とされる初期段階の須恵器「TK73型式」について、「年輪年代法」では80年ほど遡った410年ごろ———という調査もあるらしい。
奈良県平城宮下層の古墳時代の溝から、木製品とTK73型式という初期須恵器がいっしょに出土しました。この木製品を年輪年代法で調べたところ、412年に伐採した木で作られていることが分かったのです。
この木が伐採され、加工され、溝にすてられるまでの年数と、須恵器が作られてから、使われ、そしてすてられるまでの年数をほぼ等しいとみると、TK73型式の須恵器の生産・使用の年代の一点が412年にあることが知られたのです。
加羅(伽耶)と倭の人口
さて、辛亥年とか土器編年とかいわれても、一般人のぼくらにはチト敷居が高い。それでもっとシンプルに石渡説と向き合うとすると、まず思いつくのが加羅と倭の国力の比較か。
ぶっちゃけ石渡説ってのは、4世紀前半に加羅(伽耶)の軍団が玄界灘を押し渡って、北部九州の「邪馬台国」を滅ぼした———のが真実かどうか、が話の99%以上を占める説だと思う。
この点がはっきり確立されないと、たとえそれ以降の議論がいかに精緻であっても、砂上の楼閣である危険を常にはらむ点は否定できないだろう。
(出典『海を渡った交流の証し』堺市/2020年)
といっても、西暦300年代前半のことは中国の記録がないので、それより50年ほど前の正史『三国志』を見ることになるが、まず「魏志韓伝」によると、当時の「馬韓(のちの百済)」の人口は「十数万戸」で、「弁辰(のちの加羅)」と「弁韓(のちの新羅)」を合わせた人口は「四、五万戸」だという。
一方「魏志倭人伝」によれば、「奴国」が2万戸、「投馬国」が5万戸、「邪馬台国」が7万戸ということで、倭国はこの三国だけで、百済・加羅・新羅の全体に匹敵することになる。
領土の大きさからみて、250年ごろの加羅の人口は(多くても)2万戸程度だろう。
そこから老人と子どもを除く男だけを船に乗せ、玄界灘を渡って北部九州を制圧する———って、そんなことが可能なもんなんだろうか。
加羅と倭の王墓
(箸墓古墳 写真AC)
石渡説によると、350年頃に奈良盆地に王権を打ち立てた「崇神」は、390年頃に完成した全長278mの超巨大前方後円墳「箸墓古墳」に眠っているのだという。
弥生時代は日本でも朝鮮でも「方形周溝墓」なる周囲に溝のある方墳を作っていたようだが、日本だけがそれを「円形周溝墓」に発展させ、その延長線上に前方後円墳があると聞く。
なので「円形周溝墓」の過程のない加羅の王墓は、日本のものと全く違うものに発展した。それが下の写真「池山洞古墳群」で、山の稜線に沿って円墳が並ぶという独自のスタイル。
加羅と日本では、葬送観念も死生観もまるで違っていたようだ。
(出典『伽耶と倭』朴天秀/2007年)
加羅から持ち込まれなかった先進技術
日韓併合の総督府にせよ、占領統治のGHQにせよ、自国で使っていた便利なものは、進出先でも使いたいと思うのがフツーだろう。
ところが加羅ではとっくに実用化していたのに、何故か「崇神王朝」が日本に持ち込まなかった先進技術が3つあって、それが「須恵器」「馬産」「製鉄」だ。
これらが日本に導入されたのは「崇神」が没した4世紀末になってからだという。
てか、5世紀になっても畿内の古墳では「馬具」や「鉄挺」を誇らしげに副葬していたようだが、そんなの加羅から渡来したという支配層にとっては、珍しくも面白くもない日用品だっただろうに。
【関連記事】皇室(天皇家)のルーツは朝鮮半島ではない
日本人と朝鮮人のDNA
石渡氏は2009年の河出文庫版「まえがき」のなかで、こんなことを言っている。
人類学や遺伝学の最近の研究成果は、弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島から多数の渡来者があったこと、この渡来者が大多数の日本人の先祖であることを明らかにしています。
日本の古代国家は、朝鮮半島から渡来した人々がつくったのですが、学者たちは、この事実を直視したがらないのです。
だがそれは本当に「事実」なんだろうか。
まずは父系、すなわち支配層を表す「Y染色体頻度」のグラフを。
キャプションには「弥生時代以降に大勢の渡来人男性がやってきたとか、彼らの子孫だけが爆発的に増えていったとする考え方を否定している」とある。
(出典『日朝古代史 嘘の起源』室谷克実/2015年)
つづいて「ヒトゲノム計画」で解読されたデータに基づく「遺伝的構造解析」を3次元プロットしたグラフ。
図1は、私たちがアジア各地域に住んでいる人(それぞれ32人ずつ16地域)の遺伝マーカーを構造解析した結果を示したものです。
100個ほどのマイクロサテライト(ゲノム上に、同じ配列が繰り返す反復配列には、反復数の差異がひんぱんに確認されます。数塩基の繰り返しをマイクロサテライトと呼び、遺伝的系統の目印となります)をマーカーとして調べた結果で、それぞれが地域によって特徴的な結果を示していることが、ここから確認できます。
(「大陸とは明らかに違う日本列島人」山本敏充/2016年)
(出典『DNAでわかった日本人のルーツ』斎藤成也/2016年)
最後に、DNAではないが、古墳時代に「渡来人が日常で使った調理用土器」が出土している遺跡の分布。
このうち、渡来系が大半を占めたのは陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)の「大庭寺遺跡」ぐらいなもので、他は渡来系は10%もあれば多い方なのだそうだ。
(出典『海を渡った交流の証し』堺市/2020年)
そもそも、邪馬台国を打ち倒して「崇神王朝」を建てたという加羅(伽耶)という地域は、百済や新羅のような国家建設もできずに小国が乱立する連合体に過ぎず、国土は山がちで平野が少なく、人口も北部九州とは比較にならない少なさだった。
石渡説ではそんな加羅が4世紀の前半、大挙して玄界灘を渡ってくると、いともたやすく北部九州を制圧し、さらには無人の荒野を行くが如くに瀬戸内一帯を支配下におさめ、ついには畿内に大国・高句麗とも戦えるような統一政権を樹立したというわけだが・・・うーむ。