山背大兄王の死と上宮王家の滅亡
西宮古墳と平群神社
上の写真は2024年12月に見学した奈良県平群町の「西宮古墳」。
7世紀中頃〜後半に築造された36x36mの方墳で、きれいな三段築成が見て取れる。残念ながら盗掘を受けていて、蓋のない石棺までが丸見えだった。
西宮古墳の立地は、聖徳太子の「上宮王家」が本拠地とした斑鳩からは西に2キロ程度で、被葬者には643年に蘇我入鹿の軍勢に攻められて自害した太子の長男、「山背大兄王」が想定されているらしい。
こちらは西宮古墳から竜田川に向かって徒歩1分の地に鎮座する、式内大社の「平群(へぐり)神社」。
延喜式神名帳には「5座」とあるが、現在の祭神は「大山祇神」の一座のみだ。
古代豪族・平群氏といえば、武内宿禰の子で仁徳天皇と同日に生まれたという「平群木菟(つく)」や、雄略朝で「大臣」をつとめた「平群真鳥(まとり)」が知られるが、飛鳥時代にも聖徳太子に仕えた「平群神手(かんて)」がいる。
平安初期の『上宮聖徳太子伝補闕記』なる古文書によれば、神手は物部守屋討伐戦(丁未の乱)では「少軍(少将軍)」として参軍し、のちに一族をあげて厩戸に奉仕したという。
(『聖徳太子の謎』遠山美都男/2013年)
神手が建立した「平隆寺」の創建当時の瓦は、斑鳩の法隆寺や中宮寺、法輪寺から出土した瓦と同類・同笵のものなんだそうだ。
聖徳太子に仕えた膳臣と秦氏
(法輪寺 写真AC)
平群氏の神手と同じように、物部守屋討伐戦(丁未の乱)に参軍し、その後も太子に仕えた人物には「膳臣(かしわでおみ)賀拕夫(かたぶ)」がいる。
斑鳩の「法輪寺」は、太子の病気平癒を願って山背大兄王らが推古30年(622年)に発願したというが、実際には膳臣カタブの娘で、太子が同じ墓での埋葬を望んだ最愛の妃「菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)=膳大娘」の邸宅を寺とした、「膳臣の寺」とみるべきだという。
(『聖徳太子』石井公成/2016年)
こちらの写真は、なぜか奈良の土産物屋で売っていた、京都・太秦にある「秦氏」の氏寺「広隆寺」の国宝「宝冠弥勒」のフィギュア(¥1700)。
蘇我入鹿の軍勢に攻められて、生駒山に逃げ隠れた山背大兄王に、部下の「三輪文屋(みわふみや)」が「深草屯倉」への逃走を進言したように、山城国深草や葛野(かどの)を拠点とした渡来系豪族「秦氏」と上宮王家の関係は深い。
歴史学者の加藤謙吉氏によれば、上宮王家の経済基盤「上宮乳部(壬生部)」を管理していたのは、秦氏の総帥「秦河勝(はたのかわかつ)」なのだという。
(広隆寺 写真AC)
『上宮聖徳太子伝補闕記』には、物部守屋討伐戦(丁未の乱)に「軍政」として軍を率い、厩戸皇子の護衛をつとめた秦河勝は、太子の放った「四天王の矢」が守屋を射抜くと、その頭を斬り落としたとあるそうだ。
だが加藤謙吉氏によれば、秦河勝は聖徳太子より年少の人物で、上宮王家との関係も推古朝で7世紀に入ってから———とのことで、上記の”戦友”の件は、後世の作り話。
ただ、『伊豆国風土記』逸文には、伊豆と甲斐には太子の「御領」が多いとあって、こうした「東国」の兵を集めるには、管理人である秦河勝の協力が必要だったのは確かなこと。
いかんせん、三輪文屋が進言した秦氏を巻き込んでの東国からの逆襲は、民の安寧のために戦わずの自死を選んだ山背大兄王の「捨身」的行為によって実現せず、その実際の規模や実力のほどは、永遠に分からずじまい———という話だ。
田村皇子(舒明天皇)と山背大兄王
こちらの写真は、第34代舒明天皇の御陵とされる桜井市忍坂の「段ノ塚古墳」。
こののち、斉明・天智・天武+持統・文武とつづく、いわゆる「押坂王家」の「八角墳」の嚆矢で、対辺長は42m、下部の方形壇は105m。
35年3ヶ月にも及んだ大女帝・推古天皇の御代が終わりかけたとき、推古天皇と蘇我蝦夷が選んだ後継者は、山背大兄王ではなくて、田村皇子(舒明)だった。
その理由は、田村皇子が山背大兄王より年長だったことと、すでに「宝皇女(のちの皇極天皇)」との間に「葛城皇子(のちの天智天皇)」が生まれていて、かつ蘇我氏の妃との間にも「古人大兄皇子」がお誕生と、皇統にも蘇我系にも子孫がいる点に優位性があったことで、父が即位していない二世王の山背大兄王にはかなり不利な状況があったようだ。
(『蘇我氏』倉本一宏/2015年)
ところが、そんな誰の目にも明らかな劣勢にもかかわらず、山背大兄王は病床の推古天皇は自分を「推し」たのだと執拗に蘇我蝦夷に食い下がり、両者の間を何度も使者が往復したと、日本書紀は書いている。
・・・んー、まぁそれぐらいの権力欲は、いざ皇位を眼の前にすれば誰にだって湧いてくるものかも知れないが、果たして山背大兄王に即位するだけの器量があったかというと、多少の疑問もなくはない。
ぼくが気になるのは、山背大兄王の父・聖徳太子にはお世話になったから———と、山背大兄王に味方してくれた「境部摩理勢(さかいべのまりせ)」の件。
田村皇子を推す「甥」の蘇我蝦夷と決裂したマリセは、斑鳩へと退避して暮らしていたが、そこへ事情聴取をするからマリセを引き渡してくださいという蝦夷の使者がやってくると、なんと山背大兄王は「和を以て貴しとなす」みたいなことを言うと、あっさり要求に応じてしまったのだった。
孤立したマリセは蝦夷の軍に攻め殺され、日本書紀には山背大兄王を頼りにして殺されたマリセ父子に同情するような歌(読人知らず)が載るが、権力に激しく執着したかと思えば、いざ劣勢に回るとあっさり味方を見捨てたりして、なんか一本筋の通っていない、二代目のボンボン社長のような印象が、山背大兄王にはあるなぁ、ぼくには。
もちろん、日本書紀を制作したのは田村皇子(舒明)の子孫である天武・持統〜元明・元正なんだから、山背大兄王の人物像については「舒明天皇の即位」を正当化する方向で描かれたもの、という指摘もある。
そもそも山背大兄は、『書紀』では奇妙な扱いをされています。
上の推古天皇の言葉が示すように、田村皇子と天皇後継を争って騒ぎたてる軽薄な人物として登場しておりながら、蘇我入鹿の軍勢に襲撃されると、戦えば勝つと知りながら、父である太子の教えに従う聖人のような存在として死んでいくのです。
また、蝦夷もその山背大兄に対応するかのように、「憲法十七条」を尊重してこれに従う賢い大臣として描かれる一方で、「憲法十七条」に背く横暴な人物として描かれています。
こうした不思議な記事を読んでいると、「憲法十七条」は田村皇子の即位を正当化するために重視されたのであって、そのために全文が掲載されているのではないか、と思われるほどです。
(『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成/2016年)
あ、引用した仏教学者の石井公成氏は、太子が著したとされる「勝鬘経義疏」と「17条憲法」は同じ出典を参照して書かれているので、オリジナルの「17条憲法」は聖徳太子の著作である!と主張されている人なので、ご安心を(関連記事)。
日本書紀が、太子の17条憲法の精神を換骨奪胎して、その時代を生きていた人々の思想面にアレコレと潤色を加えていった———というような話なんだろう。
中大兄皇子(天智天皇)と山背大兄王
写真は、奈良時代に建てられた有名な八角円堂「夢殿」で、それが立つ現在の法隆寺「東院伽藍」は、元々は聖徳太子や山背大兄王が住んだ「斑鳩宮」の跡地だという。
さて、舒明天皇が641年に崩御したあとは、皇后の宝皇女が皇極天皇として即位したが、その時点でも「世代・年齢という点では山背大兄王の王位継承順位は第一位であり、ついで軽皇子、古人大兄皇子という順位であった」———という(遠山美都男)。
といっても山背大兄王は用明天皇の「二世王に過ぎず」すでに「大王位から離れて久しい王統」なのに、「このような王族が、斑鳩という交通の要衝に多数蟠踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁している」ことは、主流派の押坂王家や大臣・蘇我入鹿にとっては「望ましいことではなかった」———ようだ(倉本一宏)。
日本書紀だと、入鹿が「上宮の王たちを廃し、古人大兄を天皇に立てようと謀った」「巨勢徳太臣・土師娑婆連を遣わし、斑鳩の山背大兄王たちを襲わせた」とサラッと書いてあるが、藤原氏の伝記『藤氏家伝』には、入鹿の大演説が収められている。
「山背大兄は、我が家系に生まれた。そのすぐれた徳性は世に知れ渡り、偉大な徳によって人々を正しい方向に教え導く影響力は、あり余るほどである。
舒明天皇が皇位を継承された時、臣下たちは「舅(蘇我蝦夷)と甥(山背大兄皇子)の間には、深い溝がある」と噂した。
また、山背大兄皇子を次の天皇として推挙した坂合部臣摩埋勢を父の蘇我蝦夷が殺したことによって、恨みはすっかり深まってしまった。
まさに今、舒明天皇がお亡くなりになり、皇后が即位を待たずに政務を執られている。
天皇となることをねらっていた山背大兄の心中は、きっと穏やかではなかろう。どうして乱を起こさないことがあろうか。
甥に当たるからといって温情をかけることなく、国の安定を期すために山背大兄を亡き者にする計略を実行しよう」
もろもろの王子たちは、それに賛同した。
ただ、入鹿の方針に従わなければ我が身に危害が及ぶことを恐れて、みな承諾するしかなかったからである。
(『現代語訳 藤氏家伝』ちくま学芸文庫/2019年)
ここで問題になるのは、入鹿に賛同したという「もろもろの王子たち」だ。
一説によると、その中には当時18才の「中大兄皇子(天智天皇)」や、その腹心の「中臣鎌足」までが加わっていたというのだ。
『家伝』では「諸王子」の具体的な名前までは書いていないが、『日本書紀』や『上宮聖徳太子伝補闘記』をみると、この襲撃に「巨勢徳太臣」や「大伴馬甘連公」、「軽王」(のちの孝徳天皇)が加わったと記されている。
「巨勢徳太臣」は大化5年に左大臣に任じられた人物。「大伴馬甘連公」も同年右大臣に就任した人物だ。
孝徳はもちろんだが、この三人はいずれも改新政権の主要メンバーである。
そこから亀井(※輝一郎)氏は、実は中大兄皇子や中臣鎌足らもこの攻撃に関わっていたのではないかと推定した。この点、私も同感である。
(『謎の豪族 蘇我氏』水谷千秋/2006年)
まさに「四面楚歌」だ。
こうなると山背大兄王にとっては、全世界が敵に回ったかのような諦念も湧くだろうし、14才の父が参戦した丁未の乱における物部守屋の立場に自分が陥ったような、恐怖心もきっとあったことだろう。
あの時の山背大兄王には、戦意を完全に失うだけの十分な理由があったのかも知れない・・・という話。