任那日本府はあったのか

 〜朝鮮半島の前方後円墳〜

欽明天皇と任那日本府

見瀬丸山古墳

上の写真は、第29代欽明天皇のお墓といわれる前方後円墳で、奈良県橿原市の「見瀬丸山古墳」(写真AC)。


墳丘長318mは、古墳時代後期では日本最大、全期間でも第6位。

内部の横穴式石室は全長28.4mで、石室のサイズとしては日本最大。


ちなみにお父さんの継体天皇陵「今城塚古墳」は190mなので、息子のお墓のほうが1.7倍デカいことになる。

見瀬丸山古墳 空撮

(丸山古墳 橿原市公式サイト)

天皇陵としての前方後円墳は、こちら見瀬丸山古墳で最後になるが、それが奈良盆地では最大サイズで造られたのは「これが最後だ」と人々に了解されていたからだろうと、考古学者の広瀬和雄さんは書かれている。


古墳としては応神陵や仁徳陵の方が大きいが、横穴式石室の巨石群など、投下された労働量は、見瀬丸山古墳こそが史上最大だったとみて間違いないという話だ。

『前方後円墳とはなにか』

さてそんな最高グレードのお墓に眠る欽明天皇、誰もが知る事績といえば「仏教公伝」になるんだろうが、実際に日本書紀を開いてみれば、その話題の中心は「任那」の復興、その実働部隊としての「日本府」にあるようだ。


「任那」の名称自体は、崇神天皇の時代からポツポツ登場していたが、継体天皇で一気に16回を数え、欽明天皇では何と133回も検索ヒットする(2位は推古天皇の29回)。


んで何かと問題の「任那日本府」については、雄略天皇で1回出てくる他は、欽明天皇で34回と独占状態だ。


ま、任那は欽明天皇23年(562年)に新羅に滅ぼされたので、この時期に記載が多いのは当たり前といえば当たり前だが、やはり気になるのは「任那日本府」が実在したのかどうかだ。

任那日本府は「あった」説

『任那(みまな)から読み解く古代史』大平裕/2017年

現在の日韓の学界では「任那日本府」はなかった、というのが共通認識だが、「あった」説を唱えられているのが大平正芳記念財団の代表を務められている、古代史研究家の大平裕さんだ。


その根拠は大きく3点で、まず一点目が朝鮮半島南部の海上祭祀跡「竹幕洞(ちくまくどう)祭祀遺跡」の存在だ。

韓国における祭祀遺跡・祭祀関連遺物

(出典『任那から読み解く古代史 朝鮮半島のヤマト王権』大平裕/2017年)

竹幕洞祭祀遺跡は、4世紀初頭には祭祀場としてスタートしているそうだが、そこからは倭国独自の「手づくね土器」とか「滑石製模造品」とかが出土していて、海を渡った「宗像大社」の「ひもろぎ祭祀」とよく似た祀りが行われていたんだそうだ。


だが、百済が高句麗に追われて南下してきたのは、5世紀後半の475年とかなり後の時代の話で、それ以前の百済がわざわざこんな南方で祭祀をやる理由がない。理由があるのは、海を往復してる倭人だろう———というのが大平さんの説明。

韓国の前方後円墳分布図

(出典『継体天皇と朝鮮半島の謎』水谷千秋/2013年)

二点目が「任那」エリアで14基発見されている、前方後円墳の存在。


これらは、だいたい475〜550年ごろの築造とのことで、任那が滅亡した562年には、すでに終焉を迎えていたようだ。


大きいものでも墳丘長76mと、日本基準だと「中の下」クラスに留まっていて、古墳群は形成せず、それぞれ単独でバラバラに分布している。


百済には百済で、独自の方墳文化が発達していたわけで、倭と無関係な半島人が好んで前方後円墳を造るとも思えず、任那日本府が存在した「傍証」だろうと、大平さんはいわれる。

広開土王碑

(出典『百舌鳥野の幕開け』堺市/2011年)

三点目が、413年に建てられた高句麗の「広開土王碑(好太王碑)」に刻まれた碑文で、そこには392〜407年にかけて、高句麗が「倭」と戦ったことが記録されている。


だが、そのときの倭軍の「総司令部的存在」はどこにあったのか。


高句麗は最大で5万の大軍を投じたというが、そんな大軍を相手にして15年間も戦った倭国が、朝鮮半島に軍事拠点を持っていなかったとは、考えにくいんじゃないか―――。


そんなかんじで大平さんは「早くて西暦200年頃、妥当な線でも370年頃、確実なのは390年頃」には、任那に「日本府」は存在したとおっしゃるわけだが、ここでいう「早くて」の根拠となるのは、泣く子も黙る『三国志』に収められた「魏志韓伝」だ。

邪馬台国時代の「倭」

1972年にNHKブックスから出版された名著『古代朝鮮』の中で、著者の井上秀雄さんが「魏志韓伝」から復元した3世紀の朝鮮半島が、下の図。

東夷伝による諸民族の地理的位置

(出典『古代朝鮮』井上秀雄/1972年)

「魏志韓伝」には、「韓は帯方郡の南」「東西は海」「南は倭と接している」とあって、一方で我らが「魏志倭人伝」では倭の北岸を「狗邪韓国」と呼んでいるんだから、合わせると朝鮮半島の最南部は「倭=狗邪韓国」という話になる。


んで「魏志韓伝」を読んでみると、この半島南部(弁辰)の風俗は「倭人のそれに近く、男女とも入れ墨」をしていて、「道で人に行き会えば、みなとまって路をゆずる」と、礼節の存在を伝えている。


一方、我らが「魏志倭人伝」にも「倭人の風俗には節度がある」といい、道で尊貴な人と逢ったときは、草のしげみによけて、膝をついて「両手を地につき敬う態度をとる」と書いてある。


ちなみに中国人が言うには、「韓(馬韓)」は「人々の間に跪拝の礼はない」「まさに囚人や奴婢が集まったに過ぎない」と、ネトウヨ?(笑)のようなことを書いている。

半島南部とのちの百済とでは、そもそも別の習俗を持った人間が住んでいたということなんだろう。

三国史記(下)列伝

朝鮮半島南部に「倭」があった件については、『三国史記』の「列伝」に興味深い記事が載っている。


西暦254年、新羅(辰韓)の大将軍「昔于老(せきうろう)」が倭国の使者を接待したとき、うっかり調子に乗って「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」と豪語してしまった。

これを聞いた倭王は烈火のごとく怒り、軍を出してきた。

于老は、倭軍に赴いて釈明するが、倭人に捕らえられ、焼き殺されてしまったという―――。


年代からいって、このときの「倭王」は、邪馬台国の卑弥呼とトヨの間に立ったという男王ということになるが、仮に邪馬台国が北部九州にあったとしても、このときのスピード感や距離感はないように思える。


于老を焼き殺した「倭王」とは、新羅とは地続きの半島南部の「倭」の王だった・・・と考えたほうが、話がスッキリするように、ぼくには思えるのだった。

百済が創作した任那日本府

『古代朝鮮』井上秀雄/1972年

今となっては、1972年の井上さんの本は「古典」として嗜むのが正しいのだろうが、ニワカのぼくらには当時の空気が逆に興味深かったりもする。


井上さんによると、1972年の学界は今とは180度、真逆の立ち位置をとっていて、新羅や百済は4世紀後半から「大和朝廷の出先機関」に支配されていたという考えが、広く通用していたのだという。


それに対する井上さんの反論が、「任那日本府」とは、6世紀末に中華帝国「隋」が高句麗に出兵した件に危機意識を抱いた百済が、ヤマトを百済防衛に巻き込み、利用するために創作した架空の「飛び地」であり「故地」だというもの。


日本書紀の継体紀、欽明紀に引用される『百済本記』(百済本紀ではない)は、ヤマトを利用するために迎合的に書かれた史書なのだという。


もともとはお前らヤマトの土地なんだから、お前らにも守る義務があるニダという話だろうか。


ただ、井上さんは好太王(広開土王)の5万と戦ったのも半島南部の「倭」だとおっしゃるが、碑文には倭が「海を渡って」と書いてあるし、そんな強い半島の「倭」が6世紀になっても国家統一できてないのは、ちょっと理屈に合わない気がする。


そこはフツーに、高句麗と戦ったのは本土(ヤマト)の水軍で、その軍事拠点は任那・加羅あたりに存在した、ってかんじでいいように、ぼくには思えるなぁ。

任那の前方後円墳

月桂洞1号墳

出典『日朝古代史 嘘と恨の原点』室谷克実/2017年

ここで話を任那の前方後円墳に戻す。


地元・韓国の専門家、朴天秀氏によると、任那の前方後円墳は「従来、古墳の造営されなかった地域に、在地的な基盤を持たず、突如として出現した」ものだという。


その一方で、同じ地域に「前方後円墳と並行して在地の伝統的な墓制である甕棺墓や石室墓が、首長系列を維持しながら造営されている」という側面もあるそうで、朴氏は任那の前方後円墳は「在地首長」のものではない、と書かれている。

(『加耶と倭』朴天秀/2007年)

『加耶と倭』朴天秀/2007年

んじゃ、朴氏は誰を中の人だと考えているかというと「北部九州から有明海沿岸に出自をもつ倭人」だろうという。その根拠は、石室構造や副葬品の共通性だ。


彼ら九州の倭人たちは、475年に高句麗に首都・漢城(ソウル)を攻め落とされて、南の熊川で再起を図っていた百済に協力していた軍人たちで、朴氏によれば「(のちの)欽明紀に見られる倭系百済官僚の原型ともいえる存在」で、つまりはヤマトと百済に「両属」していたのだという。


上の方に貼った地図のとおりで、任那の前方後円墳は「ひとつの盆地に一基ずつ分散して分布」していて、日本のような「古墳群」を形成することなく一世代で終わっていることが、ここに「日本府」のような「中心勢力」が存在しなかったことの傍証になるのだそうだ。

百済の襲津彦と任那の行軍元帥

扶余陵山里古墳群

(百済のお墓「扶余陵山里古墳群」写真AC)

朴氏のいう「両属」っぽい話は、日本書紀にも出てくる。


まず仁徳天皇41年に「紀角(きのつの)宿禰」が百済に派遣されたとき、百済王の一族「酒君」が無礼を働き、王は酒君を鉄の鎖で縛って「襲津彦にしたがわせて進上してきた(附襲津彦而進上)」とある。


この顛末を素直に読めば、このときの「襲津彦」は百済王の近くで働いていて、百済王の命によって酒君を護送してきた―――つまりは「両属」していたように読める。


あるいは雄略天皇8年(465年)に高句麗に攻められた新羅王は、「任那王」に使者を送って「日本府の行軍元帥(いくさのきみ)」の援軍を要請している。


このとき任那王の推挙によって「膳臣斑鳩」「吉備臣小梨」「難波吉氏赤目子」が新羅の救援に向かっているが、彼らは勅命によって半島に駐屯し、「任那王」の指揮下で働く軍人のようなので、やはり「両属」していたと見ていい気がする。

任那日本府はなかった?

慶州の古墳

(新羅のお墓「慶州の古墳」写真AC)

んで、少なくとも、任那に前方後円墳がガンガン築造されていた6世紀前半には「日本府」は存在してなかった―――と思わせるのが、継体天皇21年(527年)に任那(安羅)に派遣された「近江毛野」の件。


日本書紀を読む限り、近江毛野は日本大使館に赴任した全権大使・・・というよりも、あくまで任那の「お客さん」という印象があるし、日本人と任那人の混血児「韓子」の扱いも他人事のような取り組みしかしていない感がある。


このうち「韓子」については、もしも本当に「日本府」があったなら、問題化すらしていない話だろう。


それに、そもそも継体天皇は「4県割譲」だって臣下まかせで真剣味を感じさせないし、欽明天皇も口では「任那任那」言うわりには対応が遅く、規模も小さく、行動が伴ってない印象がある(個人の感想です)。


というわけで結局のところ、ぼくの感想としては1972年の時点で井上秀雄さんが書かれたあたりが妥当という気がしているので、ざっと引用しておきたい。

一言でいえば、百済に利用されて軍まで出したが、ヤマトが欲しいのは領土ではなく、中国発の最新の文化だという話。

欽明紀には、いわゆる任那日本府の名称も見え、任那復興を名目とする新羅討伐の計画は『百済本記』の主張であり、大和朝廷の直接の関心事ではなかった。

それではなぜ、大和朝廷が欽明朝に百済と密接な国交を持っていたのであろうか。その理由は百済の組織的な文化導入に強い関心をもっていたからである。


(中略)


つまり、大和朝廷が百済と関係を持ちはじめたのは、百済が加羅地方に隣接する地域を領有するに際し、形式的には裁定者であるが、事実上は立会人的立場で百済外交に利用されたということ。

そして大和朝廷側は百済との正式な国交を結ぶことによって新文化の受容が飛躍的に有利になったこと。


百済の聖王は新羅と加羅地方の領有をめぐって再び大和朝廷を利用しようとし、大和朝廷も百済から新文物受容にひかれて外交上のみならず軍事的にも百済を支援することになった。


(『古代朝鮮』井上秀雄/1972年)

日本書紀によると、欽明天皇15年(554年)に百済の聖明王の子・余昌が新羅軍に包囲されたとき、「筑紫国造」なる弓の名手が現れて王子を窮地から救ったという。

余昌は感謝して「鞍橋君」という尊称を贈ったというが、きっとこういう異国の地で没したヤマトの英雄を顕彰して、任那の地に前方後円墳が造られたんだろう。

せめてもの手向けとして、か。


敏達天皇の「日祀部」と伊勢大神につづく