『ヤマトと伊都国  邪馬台国畿内説のゆくえ』

〜纒向遺跡と北部九州〜

2023年晩秋、千葉県佐倉市の国立歴博で買ってきたのが『ヤマトと伊都国』(2023年)。


福岡県糸島市の「伊都国歴史博物館」が開催した特別展の図録だ。

副題に「邪馬台国畿内説のゆくえ」とある。


実は買ったはいいが、半年読むのを忘れていて、最近ふと思い出してページを繰ってみたところ、九州人が書いているのに結論が「邪馬台国畿内説」。


そこに至るロジックにもチト疑問を感じたので、軽くご紹介。

纒向遺跡と三雲・井原遺跡

(三雲南小路遺跡)

この本は伊都国歴史博物館の発行なので、いわゆる「畿内説」が邪馬台国の有力候補だとする奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」と、伊都国にある弥生遺跡を比較しながら話が進められていく。


魏志倭人伝によれば、邪馬台国の女王・卑弥呼の在位は188〜247(248)年。

時代的には弥生時代後期後半から終末期で、土器の「纒向編年」だと弥生Ⅴ様式末から庄内Ⅰ式にあたるんだそうだ。


その頃の纒向遺跡は、全盛期から見ればまだ1/3ほどの規模で、東西・南北に各1㎞ほどのサイズ。


同じ頃の伊都国の中心地「三雲・井原遺跡」が集落全体としては、南北900m、東西700mと纒向遺跡の2/3ほどの面積なので、当時の纒向は驚くほど大きいというわけではないことがわかる。


実は卑弥呼の時代の畿内には、大阪市平野区から八尾市にかけて、南北3.5㎞、東西1㎞にわたって広がる「中田遺跡群」が存在していて、文化的にもコチラが先行していたらしい(『ヤマト王権の古代学』坂靖/2020年)。


纒向遺跡が最大化したのは「布留0式期」以降だそうで、西暦だと270〜290年以降のこと。

卑弥呼の後を継いだ「トヨ(イヨ?)」が、「晋」に朝貢したという266年より後の時代ということになる。


また北部九州では、卑弥呼が死んだ頃には鉄器の生産が始まっているそうだが、これも纒向では270〜290年頃のことらしい。


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ヤマトと伊都国の古墳

上の写真は伊都国の王墓で「平原遺跡・一号墓」。

東西14m、南北10mの「方形周溝墓」だ。


築造年代は、糸島市のサイトによると弥生時代終末期(約1800年前)というので、西暦だと200年頃。


当時は帯方郡や朝鮮諸国のおエライさんでも一辺30m程度の方墳がスタンダードで、例えば同じ福岡県でも久留米市の「祇園山古墳」はちょうど卑弥呼が死んだ250年頃の築造だが、楕円の台座の上に一辺約23mの方墳がのっているスタイルだ。

纒向石塚古墳

出典『ヤマトと伊都国』

ところがその時代、纒向遺跡の界隈にはのちの前方後円墳のプロトタイプといわれる「纒向型前方後円墳」なる、我が国オリジナルの墳墓が誕生していた。


最古とされる「纒向石塚古墳」(94m)が庄内Ⅰ式期(210〜250年)、つづく「纒向勝山古墳」(115m)が庄内Ⅱ式期(250〜270年)の築造とされる———というんだが・・・。


はて、伊都国といえば、卑弥呼が「一大率」なる監督官をおいて諸国を取り締まっていたという、「倭国」の玄関口。


帯方郡の使者も伊都国に宿泊したというが、仮に邪馬台国が纒向にあったとすると、両国はなぜか、全く異なる葬送文化を持っていたことになるわけで、中国人の興味を引かないわけがないという気がするが、倭人伝には何も書いてない・・・。


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祇園山古墳

祗園山古墳

なお、纒向勝山古墳と同じ庄内Ⅱ式期(250〜270年)には、千葉県に「神門5号墳」という36mの纒向型が、茨城県に「姫塚古墳」という29mの前方後方墳が造られている。

纒向と並行するように、東国にもヤマト式の古墳が造営されていたようだ。


一方、伊都国ではそれより後の時代の「布留式古段階」(270〜290年)になってから、ようやく前方後円墳の「御道具山古墳」(65m)や「泊大塚古墳」(85m)が築造されたそうで、纒向に空前の超巨大古墳「箸墓古墳」(280m)が造られた頃になって、北部九州にもヤマト式の葬礼が伝わったということか。


ちなみに北は会津の「杵ガ森古墳」が西暦300年ごろの築造らしい。


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伊都国とヤマトの「鏡」

ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡

(出典『ヤマトと伊都国』)

魏志倭人伝によると、卑弥呼は朝貢の見返りに「汝の好物」だからと銅鏡100枚を下賜されたという。


伊都国の人たちも、やはり鏡は大好物だったようで、「三雲南小路王墓」からは57面、「井原鑓溝遺跡」からも20面、「平原王墓」からは直径46.5cmのビッグサイズを含めて40面の銅鏡が出土しているそうだ。


ところが奈良盆地はというと・・・庄内Ⅲ式期(270〜290年)の「ホケノ山古墳」から画文帯神獣鏡が1面と、2個体分+αの「銅鏡片」が出土するぐらいで、かなりお寒い状況だったようだ。

畿内の人たちは、鏡が「好物」じゃなかったんだろうか。


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伊都国と纒向の交流

纒向の外来系土器の比率

出典『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』石野博信

纒向遺跡には列島各地から土器が運び込まれていたそうで、土器全体の15%(多いエリアで30%)が外来系なのだという。


そのうち最も多いのが東海系で、外来系の半分を占め、纒向と東海の「密接な関係をうかがい知ることができる」んだそうだ。

なるほど、纒向と東海で戦争なんて、チト考えにくいということか。


一方、伊都国を含む北部九州の土器は少なく「西新式の壺の口縁部と胴部の破片が出土」している程度で「あまり密接な交流が無いようにも感じる」とのこと。

つまり伊都国や奴国、不弥国から纒向に、人や物が流入した形跡はなかったということか。


ん?  それじゃ、一大率は纒向から伊都国に来たというわけじゃなかったのか?  

中国の使者団も、纒向には行ってないことになるのかな?

不思議な結論

箸墓古墳

箸墓古墳    写真AC

———といったようなことが『ヤマトと伊都国 邪馬台国畿内説のゆくえ』に書いてあったことになる。


率直な感想として、ぼくには伊都国と纒向が同じ文化を共有していたとは思えず、それはすなわち、邪馬台国は纒向にはなかったことを示している・・・という結論になるんかな?と思ったわけだが、本の結論はこう。

これらの考古学的事象を踏まえるならば、現段階では、纒向遺跡が邪馬台国の中心集落の最有力候補と考えられるのではないだろうか。

えーっ!なんでー!と思わず声を上げてしまったぼくだったが、王の居館があったり、(九州を除く)各地の土器が集まってたり、農業生産の遺物が見当たらなかったり、(九州にかなり遅れて)鉄器の生産が始まったり、超巨大古墳「箸墓古墳」が造営されたのが纒向だったとしても、それが魏志倭人伝のいう邪馬台国である根拠には全くなってないのは明らか。


それらは単に纒向に、強い求心力をもった何らかの政体が存在したことを表すだけのことだろう。


ぼくには「環濠」も「防御柵」もない平和な宗教都市・纒向が、魏志倭人伝が描写する戦闘国家・邪馬台国の舞台だとは、到底思えないんだが。


実はこの本には冒頭に「はじめに」として、魏志倭人伝には伊都国にのみ代々の王がいたと書いてあるが、糸島市には「三雲南小路」「井原鑓溝」「平原」という代々の王墓があって、倭人伝の記述と実際の弥生遺跡が一致する云々・・・とあったので、てっきり倭人伝を考古学的に検証する試みかと期待したが、伊都国や奴国と考古学的につながらない纒向が邪馬台国って・・・。


失礼ながら、いわゆるKETSURON_ARIKIという印象が残る、読後感だったなぁ。

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