井沢元彦『逆説の日本史2』 

〜聖徳太子は心中自殺した怨霊か〜

長い「殯(もがり)」の天皇

牽牛子塚古墳

上の『ゼビウス』に出てきそうな石造物は、第37代斉明天皇(天智・天武の母)のお墓とされる八角墳で、奈良県明日香村の「牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」(2024年冬見学)。


墳丘は対辺22m、高さ4.5mの正八角形で、大きいというほどのことはないが、驚くべきは投入された石材の総重量550トンで、中でもあらかじめ二人用に設計された石槨は、80トンもの凝灰石を二上山から15kmも運んで持ってきて、現場でくり抜いて造ったものだという。

とんでもない労力と権力だ。

牽牛子塚古墳の石槨

(出典『律令国家前夜』前園実知雄)

斉明天皇は「殯(もがり)」が長いことでも有名な天皇で、661年7月に九州の「朝倉宮」で崩御したものの、娘の「間人(はしひと)皇女」と牽牛子塚古墳に「合葬」されたのは、5年7ヶ月後の667年2月だったのだという。


ただ、合葬された間人皇女が薨去したのが、斉明天皇崩御から4年半たった665年2月だったので、地元の考古学者・前園実知雄さんは「石槨の構造からみても計画的な合葬墓」である点から、間人皇女が薨去してから新たに築造されたのが、牽牛子塚古墳とみるのが妥当だと書かれている。


てーことは、間人皇女が生きている限り斉明天皇の「もがり」は続いていったことになるわけで、5年7ヶ月という期間は「結果的に」そうなっただけのことになるか。


なお日本書紀によれば、息子の天智天皇(※翌年即位)は、今後は「石槨の役(いわきのえだち=墳墓の造営工事)」は起こさぬことを戒めとせよ、とボヤいてるので、つくづく大変な工事だったんだろう。

河内大塚山古墳

(河内大塚山古墳 写真AC)

こちらの写真は、大阪府松原市と羽曳野市にまたがる前方後円墳「河内大塚山古墳」で、6世紀後半の築造としては欽明天皇陵「見瀬丸山古墳」の318mを上回る、墳丘長335m。


だが、全国歴代5位の巨大墳墓にもかかわらず、被葬者がわからないのだという。

それを、第30代敏達天皇のお墓だろうというのが、考古学者の森浩一さんだ。


敏達天皇も「もがり」の長い天皇で、日本書紀には死後5年7ヶ月たっての埋葬が記録されるが、それがどういうわけか母親の石姫皇女(欽明天皇皇后)が眠る113mの前方後円墳に「合葬」されたと書かれている。


そりゃあんまりだと思ったか、妻の推古天皇が亡き夫のために造ったのが、河内大塚山古墳ではないかと森さんはお考えのようだ(見瀬丸山古墳を巨大化させたのも推古天皇)。

『敗者の古代史』森浩一

なるほど日本書紀を読んだかんじ、敏達天皇崩御後の推古天皇は「大后」として相当な権力を持ったようだし、とりあえず(敏達天皇ご本人の希望か)母親と合葬しておいて、それから5年かけて完成した巨大古墳に夫を本葬したものが、何故かこの間の記録がゴチャゴチャになってしまい、5年以上の「もがり」の挙げ句に母親と合葬された、というチト格好悪い天皇になってしまった———とか。


ま、真相は不明だが「もがり」の長い天皇には、長いだけの事情がありそうだ、というのがぼくの印象。

『逆説の日本史2 古代怨霊編』(1994年)

ところで、じゃあ反対に「もがり」が短い天皇はどうなのか。


それを、暗殺や自殺といった「異常な死」「非業な死」を遂げた天皇の場合だとして、その中には(皇太子ではあるが)あの聖徳太子も含まれるのだ!と主張したのが、作家・井沢元彦さんの『逆説の日本史2 古代怨霊編』(1994年)だ。


古代史好きなら読んだことがない人はいないと思うが、聖徳太子の死は、仏教の「捨身」を具現化するための妻との「心中」で、「もがり」が短く、母親・妻と「合葬」されたことで「怨霊化」の条件を満たしたため、祟りを恐れた人々に「徳」の諡号を贈られた———と聞けば、あーそういう話だったよなーと思い出す人も多いだろう。


大ベストセラーだし、ぼくにとっても思い出の愛読書のひとつだ。


ただ、最近ニワカに古代史ファンになって読み返してみると、気になる点がいくつか出てきた。

この30年には、反論などは言い尽くされているんだろうが、今さらながら気になった点などいくつか挙げてみたい。

飛鳥時代の天皇「殯」一覧

(出典『逆説の日本史2 古代怨霊編』)

「聖徳太子ノイローゼ」説

『聖徳太子の悲劇』1992

井沢さんが、聖徳太子が完全無欠の聖人君子ではなく、悩みも苦しみもある一人の人間だったことを明らかにするために引っ張ってきたのが、作家・豊田有恒氏が提唱する「聖徳太子ノイローゼ説」だ(『聖徳太子の悲劇』1992)。


豊田氏によれば、聖徳太子はスキャンダルにまみれた悲惨な家庭環境で育ったため、極度のノイローゼを患ってしまい、天皇になるチャンスをモノにできなかったが、伊予の温泉で回復し、立派な皇太子として偉業の数々を成し遂げた———んだそうだ。


僕が気になったのは、太子の妃(刀自古郎女)が「東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)」と「不倫」していた説や、伊予の温泉で湯治した説の根拠とされた史料が、チト新しすぎること。


不倫ネタの方は、1350年に生まれた「聖誉」なる坊さんが撰述した『聖誉鈔』が元ネタで、1400年ごろの成立。

伊予温泉ネタも、井沢さんは「伊予国風土記」と書かれているが、実際にはその「逸文」がのる『釈日本紀』が出典で、1300年頃の成立と、どっちも太子の死後600年以上の後世に書かれたものだ(伊予国風土記の原本は存在しない)


「鎌倉時代の聖徳太子観」の材料にはなるんだろうが、飛鳥時代の元ネタとして使っていいのは、「小説」の場合だけだろう。


太子の母(穴穂部間人皇女)が、夫(用明天皇)が他の女に産ませた子(田目皇子)と再婚した件も、血統的には「赤の他人」同士の結婚なんだし、当時の倫理観から問題視されなければ、ノイローゼになるほどのスキャンダルでもないような気がする(資産保持のための政略結婚という説もあり)。


ちなみに太子自身は欽明天皇2x2の濃いインブリードで、父父、母父ともに欽明天皇なので、おじいちゃんが一人しかいない。そういう時代。

梅原猛の聖徳太子「怨霊説」

『法隆寺美術論争の視点』1998年

井沢さんが「日本史上、常に聖人として扱われてきた太子像を完全にひっくり返す、まさにコペルニクス的新説」として持ち上げてるのが、1972年に発表された哲学者・梅原猛氏の「聖徳太子怨霊説」(『隠された十字架』)。


要は、再建された法隆寺は怨霊になった聖徳太子を鎮魂するために建立された———という説だが、残念ながら井沢さんが取り上げた当時から、すでにさんざん論破されてオワコン状態だったようだ。

また梅原は、「光背が釘によって頭に直接取り付けられていることは聖なる観音に対する恐るべき犯罪」であり、「像の中身を空洞にしたのは人間としてではなく怨霊としての太子を表現しょうとしたため」であると述べているが、いずれも事実と異なる。

まず、梅原は「釘」と記しているが、それは決して今我々がいうところの釘ではなく単なる取付け金具である。

金具の使用は、支柱を用いずに光背を取り付ける方法として飛鳥時代の他の作例に散見され、救世観音像だけのことではない。

また、像の中身が「空洞」だというのは、おそらくフェノロサの「背後は中空なり」(『東亜美術史綱』)という記述に飛びついたもので、まったくの事実無根である。

何としても聖徳太子怨霊説を主張したい梅原が、単なる取付け金具を、打ちつけるという怨霊封じのイメージと結びつく「釘」とみなし、像の中身を空洞と曲解したのは当然の成り行きであろうか。


(「救世観音像」森下和貴子『法隆寺美術論争の視点』1998年)

法隆寺の秘仏「救世観音像」は、「台座の蓮肉部まで丸彫りの一木彫成像」で「背面もつくられており」、そもそも「飛鳥時代の仏像に像内を中空にした木彫像などは一体もない」のだそうだ。


(『大和古寺巡歴』町田甲一/1989年)

もがりの短い聖徳太子と崇峻天皇

藤ノ木古墳

もちろん、井沢さんは梅原氏とは別のアプローチで、太子怨霊説を証明しようと試みている。

それが「短い殯(もがり)」だ。


日本書紀によると、太子の薨去は推古29年(621年)2月のことで「この月に」太子は磯長陵に葬られたという。


この一ヶ月にも満たない「もがり」は太子の「異常死」を表しているとして、井沢さんがより明白な例として取り上げるのが、蘇我馬子の命令で東漢直駒に暗殺され、その日のうちに「倉梯岡(くらはしのおか)陵」に葬られたという、第32代崇峻天皇。


井沢さんは「倉梯岡」は仮埋葬の地で、崇峻天皇はその後、斑鳩の50m円墳「藤ノ木古墳」に(5年前にやはり蘇我馬子に殺された)「穴穂部皇子」とともに「合葬」されたのだという。


それは蘇我馬子に味方して「加害者側の人間」になってしまった聖徳太子が造ったお墓で、藤ノ木古墳があるからこそ、太子は飛鳥から20キロも離れた斑鳩を本拠地にしたのだという。

まとめると、

①異常な死(暗殺による死や自殺)を遂げた人の殯の期間は極端に短い。

②殯が短いために、墓を造成するゆとりがなく、墓がないという難問を合葬という手段で解決することがある。


これが「異常死した高貴な人物の埋葬における原則」である。


(『逆説の日本史2 古代怨霊編』)

赤坂天王山古墳

(出典『赤坂天王山古墳群の研究』桜井市)

が、専門家の見立てはチト違うようで、崇峻天皇の皇居(倉梯柴垣宮)に近い、一辺50mで被葬者不明の謎の大方墳「赤坂天王山古墳」(桜井市倉橋)こそが崇峻陵———という説が有力のようだ(森浩一さん等)。


井沢さんは『延喜式』の「諸陵式」に、崇峻陵について「無陵地并陵戸(陵地ならびに陵戸なし)」とある点だけ切り取って取り上げているが、全文には地名もちゃんと書いてある(陵戸=墓守)

倉梯岡陵。倉梯宮に御宇しし崇峻天皇。大和国十市郡に在り。陵地并びに陵戸無し。


(巻第二十一諸陵寮)

大和国十市郡には「赤坂天王山古墳」のある桜井市倉橋が含まれているし、信頼性の高い史料とされる法隆寺の『上宮聖徳法王帝説』にも崇峻天皇の「陵は倉橋岡」と明記してあるのに、それを否定して、崇峻天皇には縁もゆかりもない15キロ離れた斑鳩(藤ノ木古墳)を主張するなら、それなりの根拠は必要だろう。

『上宮聖徳法王帝説』

(岩波文庫¥792)

なお、発掘を担当された前園実知雄さんによれば、藤ノ木古墳は石室の石材の種類と産地がバラバラで、石棺も一見立派だが丁寧な作りではない点から、埋葬にあたって「急ぐ」という要素が強く見受けられるのだという。


だが、もしも井沢さんの言われるような理由で倉橋から斑鳩に「改葬」したというのなら、「急ぐ」理由なんて特になかったような気がするな。

『飛鳥と古代国家』篠川賢/2013年

もがりの期間の件で、興味深い話を読んだ。


歴史学者の篠川賢氏によれば、用明・崇峻の御世になっても敏達天皇の殯が続いたことから、用明・崇峻は「仮の大王」だった可能性が指摘されるらしい。

また、『日本書紀』によれば、敏達の遺体が埋葬されたのは崇峻4年(591)のこととされており(崇峻4年4月甲子条)、敏達の殯は、用明即位後もなお続けられ、崇峻が即位したのちも、さらに続いたのである。

次期大王は殯において決定したとする説があり、この説に従うならば、用明は「仮の大王」であったことになり、崇峻もまた「仮の大王」として即位したことになる。

用明・崇峻については、『日本書紀』に殯宮の記事がみえないことも注意される。


(『飛鳥と古代国家』篠川賢/2013年)

なるほど、そうだとすると天智天皇がなかなか即位しなかった理由には、先代(斉明)の殯が終わらないうちに即位すると「仮の大王」と見なされる恐れがあったから———もあるのか?

『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成/2016年

それにしても井沢さんは、聖徳太子が薨じた月に埋葬されたことにトコトンこだわっているけど、そもそも太子は「皇太子」であって天皇ではない。


ヤマトタケルのように、即位した可能性が論議されるレベルの皇子の場合は、日本書紀も天皇に準じた系譜を載せているけど、聖徳太子の家族については「刀自古郎女」も「橘大郎女」も記載されず、親子関係も明記されていない。

聖徳太子はあくまで「皇太子」の扱いでしかない。


一方、天皇以外で「もがり」が記録される人を調べてみると、太子の同母弟で新羅討伐の総大将に任じられるも、筑紫で薨去した「来目皇子」、中大兄皇子の子「建王」(享年8才)、それと藤原内大臣(中臣鎌足)の三人がヒットした。

ただ、3人とも、もがりの「期間」については言及がないようだ。


なお、仏教学者の石井公成氏は、日本書紀が太子が薨去した箇所では「厩戸豊聡耳皇子」と書き、埋葬された直後では「上宮皇太子」と書くことから、そのあたりで別々の史料をつなぎ合わせたため、情報の欠落が起こってしまった、という可能性について検討されている。

怨霊になる条件

んで、ここからが井沢説の核心部分になると思うが、「捨身の思想」の信奉者である太子が「自殺(心中)」して「怨霊」になったという主張に対し、井沢さんはあらかじめ次のような反論を想定している。

たぶん、「自殺説」については、太子自身の死は山背大兄王の死と違って、他人のために死ぬという要素がない。捨身=単なる自殺というのはあまりにも短絡的だ、というような答えが返ってくるのではないだろうか。

そして、「怨霊説」については、太子が自殺などの異常死でない以上、怨霊になるはずはない、という答えが返ってくるだろう。

だが、私はそうは思わない。


(『逆説の日本史2 古代怨霊編』)

その反論、ごもっともだとぼくも感じるが、井沢さんは「私はそうは思わない」と突っぱねて、太子が怨霊であることは、不幸な死に方をした天皇に贈られる「徳」の文字が、その称号に含まれることが証拠なのだと言われるわけだ(論点すりかえ?)。

非業の死を遂げた「徳」の諡号の天皇

(出典『逆説の日本史2 古代怨霊編』)

ただ井沢さんは、そこまでの説明の中で、そもそもの「怨霊信仰」は「子孫を根絶やししてしまうと、その家系の先祖の霊を祀る者がいなくなり、その霊が怨霊になってしまう」と書かれていて、それが「無実の罪で死に追いやられること」に変わったのは、729年の「長屋王事件」からだと主張されている。


なので、奈良時代中期に導入されたという漢風諡号「孝徳」が贈られた斉明天皇の弟については、非業の死を遂げた天皇であると奈良時代中期の人々が祟りを恐れていた———という話は理解できるし、納得もできる。

「称徳」以降も同様だ。


だが太子の「聖徳」は、奈良時代中期に贈られた漢風諡号というわけじゃなくて、706年の法起寺の銘文「聖徳皇」や、715年に完成した『播磨国風土記』(こちらは現物)の「聖徳王」に見ることができるし、720年成立の日本書紀にだって、敏達紀の「東宮聖徳」、用明紀の「豊聡耳聖徳」で登場している。

(前略)原の南に作石がある。その形は家のようである。長さは二丈、広さ一丈五尺、高さも同じくらいである。

名づけて大石といった。

伝えて言うには、「聖徳王の御世に、弓削大連(※物部守屋)が造った石だ」ということである。


(「印南の郡」『播磨国風土記』角川ソフィア文庫)

んでそうなると「聖徳」については、他の6帝の場合とは違って「子孫根絶やし」の方で怨霊化と考えるのが順当なわけで、ならばそれは井沢さんも書かれているように、太子を祀るべき「山背大兄王」一族を皆殺しにした「蘇我一族(本家)」が、乙巳の変で滅亡させられたことによって、すでに解消されたことになるんじゃないのか?


太子の無念は中大兄皇子らの手で晴らされて、あとは法隆寺で永遠に鎮魂を続ければOKなんだと。


もちろん、太子の死因については、母の看病をしていた太子が病を得て、それを看病した妃(膳大娘女)と太子が相次いで亡くなった展開からみて、井沢さんも「充分に可能性がある」と認める「伝染病死」であろうことは、コロナを体験したぼくらにはリアルに納得できる説明になっていると思う。

法起寺

(斑鳩の法起寺 写真AC)

なお井沢さんは、太子に合葬された「膳大娘女(かしわでのおおいらつめ)」は「身分が低い」「身分が低い」と不信感を煽られているがw、「膳(かしわで)氏」には斑鳩を拠点とした豪族だという説があって、今の「法輪寺」などは膳氏の「高橋朝臣」が掌ったというし(東野治之)、「法起寺」はそもそも膳氏の居宅の場所だった(前園実知雄)という説などもあるようだ。


斑鳩の地を愛した太子は、その地の風土が育てた女性のことも、同じように深く愛していたのだろう。


大山誠一「聖徳太子虚構説(非実在論)」を読んで〜につづく