壬申の乱の首謀者は持統天皇か?
〜倉本一宏『壬申の乱』〜
千葉で祀られる大友皇子(弘文天皇)
2022年春に参詣した、千葉県君津市の「白山神社」。
あの頃は東国の国造に興味があって、第13代成務天皇の時代に「タケコロ(建許呂命)」の子が任命されたという「馬来田国造」の関連史跡を見物しに、房総半島の奥地をウロウロしてたもんだった。
こちら白山神社、というくらいで主祭神は「菊理ひめ」だが、もう一柱はなぜか、壬申の乱で敗れて自害した「大友皇子(弘文天皇)」が祀られていた。
日本書紀には、大友皇子は大海人皇子の「首実検」を受けたとあるわけだが、千葉県界隈では腹心の蘇我赤兄とともに上総まで逃げてきて、「小宮城」に立て籠もったものの、大海人軍の追手に敗北して殺された・・・という伝承が広く残されているんだとか。
白山神社の背後には89mの前方後円墳「白山神社古墳」があって、地元ではこちらを大友皇子の陵だと主張しているそうだが、残念ながら4世紀後半の築造ということで、神功皇后とか応神天皇の時代のものらしい。
壬申の乱の首謀者は持統天皇?
壬申の乱といえば、わが子・大友皇子に皇位を継がせたい天智天皇に殺されかけた弟の大海人皇子が、兄の死後、はるか吉野の山奥から兵を起こして天下分け目の決戦に持ち込むと、劣勢を跳ね返して逆転の勝利を収めた―――みたいなストーリーが日本書紀には書かれているが、いやいや、反乱の本当の首謀者は、天武天皇の皇后・持統天皇だ!というのが、歴史学者・倉本一宏さんの『戦争の歴史2 壬申の乱』(2007年)。
倉本さんというと、NHK大河『光る君へ』の時代考証を担当されたりして、お硬いイメージを持っていたので本の帯のアオリ文には驚いたが、読んでみればいたって論理的な主張が展開されていて、とても勉強になった。
(大津宮跡 写真AC)
日本書紀には吉野に退去した大海人夫婦のもとに、大友皇子の近江朝廷が兵を徴発し、大海人皇子の動向を窺っている、という報告が入り「私の身が滅ぼされるというのに、どうして黙っておれよう」(中公文庫)と正当防衛としてのクーデターが描かれているが、倉本さんによれば、そもそも日本書紀からは故・天智天皇が大海人皇子を殺害しようと狙っていたとは読み取れないのだという。
むしろ「天智は本当に大海人に大王位を譲ろうとしていた」。
というのも、天智天皇が朝廷内の最高位・太政大臣に任命した第一皇子「大友皇子」は、地方豪族の伊賀采女宅子の娘―――すなわち「卑母」との間にできた子だったので、天皇になる資格がなかったから。
この点は天智天皇の他の皇子(川島皇子、志貴皇子)も「卑母」の子なので即位の可能性はなく、若き日の天智天皇(中大兄皇子)が殺したせいで、他の有力な皇族もいない状態だった。
一方、大海人皇子は天智天皇の唯一の「同母弟(全弟)」で、「ヤマト政権成立以来の兄弟継承の慣習から考えると、即位する権利を有していた」、「大海人の即位は、誰しもが当然のこととして認識していた」と倉本さんはいわれる。
(大津京駅 写真AC)
そんな状況で、病床の天智天皇が考えた皇位継承プランとは、「まず大海人を中継ぎとして即位させ」その次の世代に交代する際に、大友皇子と十市皇女(大海人の娘)との間に生まれた「葛野(かどの)王」を即位させて、大友皇子に後見させる———といったものだっただろうと、倉本さんはお考えだ。
むろん、天智天皇の後をついで即位した大海人が、自分の皇子を次世代に選ぶ可能性もあるが、大津皇子の母は天智の長女「大田皇女」だし、草壁皇子の母はその妹「鸕野讚良(うののさらら)」なので、いずれにしても「天智の血脈」。
あるいは天武の後は、皇后の鸕野サララが中継ぎとして即位(持統)するかもしれないが、それももちろん「天智の血脈」なので「不本意な結果ではなかったはず」。
というわけで、天武の次の候補者は、葛野王、大津皇子、草壁皇子、鸕野サララの4名で、その全員が天智と大海人の間の「濃密な姻戚関係」から生まれた人たちということで「両者はいわば、一体となった王権として認識されていた」。
なので大海人にも鸕野サララにも、「壬申の乱」によって天智の王権を滅ぼした、という認識はなかっただろう———。
(吉野宮・復元模型 奈良県歴史文化資源データベース)
というような状況で兄の天智に禅譲を持ちかけられた大海人は、「儀礼的な慣習」として「いったん辞譲」してはいるが、そうしておいて大津宮でぶらぶらしていれば、いずれ病気の兄は崩御して、群臣たちに推戴されるかたちで大海人の即位になる・・・はずだったのに、どうして大海人はわざわざ遠い吉野に退去していったのか。
倉本さんによれば、天武にとっては仮に自分が即位したとして、次には葛野王、大津皇子、草壁皇子、鸕野サララの4名のうち、誰が継いでも構わなかったという。
だが、それじゃ困るのが、自分が腹を痛めて生んだ草壁皇子に皇位を継がせたい母の鸕野サララだ。
女帝の先輩、推古天皇や皇極天皇がそうだったように、のちの持統天皇も我が子の即位には異常な執着を持っていた、という話だ。
(吉野の宮滝 写真AC)
実のところ、大海人夫婦が吉野に退去してからの半年は、大海人の舎人たちが吉野と美濃を頻繁に往還していたにも関わらず、大友皇子や近江朝廷がそれらに関心を持っていたそぶりは見られず、彼らは「大海人の挙兵を想定していなかった可能性が濃厚」だと、倉本さんはいわれる。
日本書紀は、近江朝廷が天智陵をつくる口実で大軍を徴兵しているというが、吉野の大海人を攻めるのに大軍は必要ないわけで(かつて吉野に逃げた古人大兄を攻めたのは40人)、その類いの話は大海人の「正当防衛」を主張する日本書紀の「作文」ということらしい(唐からの要請で新羅出兵の徴兵をしていた可能性はあるそうだが)。
で、その「半年」に大海人の側が何をしてたのかは日本書紀には言及がないが、もちろん着々と戦争準備を進めていたのだろうと。
「卑母」から生まれて皇位継承権のない大友皇子が即位する心配はないが、日本書紀には大海人からの提案だとある、天智皇后「倭姫王」に即位されてしまうと、大海人側は「大義名分」を失うことになってしまうので、「大友が朝廷を主宰して天智の殯(もがり)が行われている期間」に、何が何でも近江朝廷を叩きのめす必要があった。
ただし、そのモチベーションを強く持っていたのは(もともと皇位継承権のあった大海人皇子ではなく)鸕野サララ=持統だった、という話。
実際、草壁即位の障害となる大津皇子(サララの姉の子)は、吉野退去の際、大津宮に置いていかれているが、わざと危険にさらされたのではないか———と倉本さんはお考えだ。
大海人皇子には皇位継承権がない?
ところが、同じ壬申の乱を扱いながら倉本さんとは180度ちがって、大海人皇子は「即位する可能性がきわめて低いものであった」というのが、歴史学者・遠山美都男さんの『天武天皇の企て』(2014年)だ。
遠山さんによれば、当時は「異母兄弟継承」が主流だったので、天智の「同母兄弟」である大海人には即位の資格がなかったという。
それは、兄の天智が名門・葛城氏で養育された「葛城皇子」であることに対し、弟の天武が「異質の集団として差別」されていた海部集団・大海氏で養育された「大海人皇子」であることからも分かるのだという。
(藤原京跡 写真AC)
で、まず「異母兄弟継承」の件だが、遠山さんによれば、欽明天皇のあとを継いだ皇子たち、敏達→用明→崇峻はそれぞれ母を異にしていて、各母親グループ内の「大兄」が順番に即位していったのだという。
つまりは「同母の皇子集団から即位できるのは基本的に一人に限られていた」ということらしい。
それに対し天武は、舒明・皇極夫妻の第二皇子であるから、異母兄弟継承が主流であった当時、彼が即位する可能性はきわめて低いものであったと思われる。
いわゆる大兄皇子ではない彼が将来天皇になることは、ほとんど期待されてはいなかったといえよう。
(『壬申の乱で解く日本書紀 天武天皇の企て』2014年)
んー、そうなんかなーと思いつつ、いまいち腑に落ちないのは、「異母兄弟継承」が行われた最後の欽明皇子・崇峻天皇が亡くなったのが592年で、天智天皇が崩御したのが672年と、その間80年も経っていること。
それを「異母兄弟継承が主流であった当時」で括るのは、正直、時間が空きすぎている印象がある。
それにその80年の中には、天智・天武の母である皇極天皇から「同母弟(全弟)」の孝徳天皇へ、そしてまた「同母姉(全姉)」の斉明天皇へと、皇位が行き来した期間があるが、そこはどうなるん?と思ったら、本の中に遠山さんの回答が載っていた。
ただ、皇極・孝徳は同母姉弟なので皇極→孝徳は表面上同母兄弟による継承例となる。
しかし、皇極の即位が舒明皇后という資格によるものなので、これを同母兄弟による事例にふくめるわけにはいかない。
うーむ、崇峻天皇のあとの80年は、兄弟継承は「同母」でしか行われなかったのに、それらは「例外」であると・・・。
それで80年以上の大昔に2回だけ行われた「異母兄弟継承」が「最近」の「主流」として、80年後の天智と天武にも適用されるのだと。
うーむ・・・。
・・・もう一件の、大海人皇子の「乳母」については、ぼくが間違った要約をしたらマズイ気がするので、まるっと引用することにする。
それに天武の実名大海人は、彼が各地の海部集団を統括した大海氏出身の乳母の手で育てられたことを示している。
当時の海部は、その習俗も言語も異質の集団として差別されており、それを率いる大海氏もいわば異形の集団の統領ということで、天皇の周囲に結集した豪族たちのなかでは異色の存在であった。
天智のような正嫡の位置にある皇子であるならば、このような異形の集団の統領一族にその養育が委ねられることはなかったにちがいない。
大海人という名前自体、彼が皇位継承の埒外にあったことを端的に物語っている。
というわけで、遠山さんによれば「天智→天武という皇位継承は、当時の慣例において、きわめてイレギュラーなもの」なんだそうだ。
天智天皇の後継者は誰だ
(瀬田の唐橋 写真AC)
さて、それじゃー天智天皇は自分の後継者について、どう考えていたんだろう。
遠山さんによれば、日本書紀では禅譲を持ちかけられたときの大海人皇子の返答だとされる、天智皇后である「倭姫王の即位とそのもとでの大友皇子による輔佐」は、実際には天智天皇が企図していたアイデアだという。
それはその案が、「天智の同母弟たる天武が即位するという、前例の絶えて久しい異例の選択より」も、「先例にもとづく正当性のある選択」だからだという。
ただ普通であれば、天智皇后の倭姫王は「中継ぎ」として即位して、わが子の成長の時間稼ぎをするわけだが、残念ながら天智と倭姫王の間には子どもができなかった。
一方、皇子として生まれてきたものの、大友・川島・志貴は「卑母」との間の子で、皇位継承の資格がない。いったい天智天皇の血筋はどうなってしまうんだろうか。
そのさい天智は、敏達―舒明に連なる皇統の正嫡として、自身の血を将来の天皇たる者になんとかして伝えねばならないと考えていたはずである。
彼が天武に自身の皇女たちを結果的に四人(大田皇女、鸕野讚良皇女、大江皇女、新田部皇女)も娶らせたのはそのためであり、弟夫婦のあいだに生まれた皇子(天智には孫にあたる)を将来天皇に立てようと目論んだと考えられる。
たとえば、天武と天智の長女大田皇女とのあいだに天智2年(663)に生まれた大津皇子、天武と天智の次女鸕野讚良皇女(のちの持統天皇)とのあいだの草壁皇子(天智元年誕生)らこそが、天智の考える天皇家の正嫡を継ぐにふさわしい将来の天皇候補だったといえよう。
んーすみません、この説明も正直、腑に落ちない。
46歳で大病を患っている天智天皇なら、遠山さんがいわれるような諦念を持っても不思議じゃないが、数え年13歳だった次女のサララを大海人に嫁がせた頃の中大兄は、まだ31歳の性欲盛り。
それに、サララの同母弟で将来の天皇候補でもある「建皇子」も当時は存命中だった。
そんな時点で遠山さんがいわれるように「弟夫婦の間に生まれた皇子を将来天皇に立てよう」なんて目論むもんだろうか。自分が子作りに励めばいいだけのことなんじゃないだろうか。
ぼくには何となく、遠山さんは歴史の結果からさかのぼって、それがあたかも「当時の」人々の考えだったように当てはめているような印象が、少しある。
「異母兄弟継承」にしたって、それはあの当時、急速に台頭してきた蘇我稲目という実力者が、すでに皇女と結婚していた欽明天皇に二人も妃を入れたことに始まる混乱をおさめるための、妥協案だった可能性はないんだろうか・・・などとブツクサつぶやいていたところ、倉本さんの本の第一章冒頭部分に、こんなことが書いてあった。
歴史学研究において、もっとも警戒しなければならないのは、後年の結果を自明なものとして考え、その結果の枠組みの中で当時の人々が思考・行動していたと誤解してしまうことである(「歴史の後智慧」)。
(『戦争の歴史2 壬申の乱』倉本一宏/2007年)
おー!一気にモヤモヤが晴れた気分だ。これは腑に落ちた。
ところで倉本さんによれば、天武に嫁いだ天智の4人の娘のうち、大江皇女と新田部皇女は、壬申の乱のあとに嫁入りしたのではないか、とのこと。
そうだとすると、<敏達ー舒明ー天智>の血を欲したのは、実は天武の方だったという可能性はないだろうか。理由はもちろん、天武には<敏達ー舒明>の血が流れていないから・・・。
やはりぼくは現時点では、天武は用明天皇の孫「高向王」と「宝皇女(皇極=斉明)」の間に生まれた「漢皇子」———という大和岩雄さんの説に惹かれるものがある。
遠山さんのいわれる「大海人」という差別的待遇も、それだと余裕で説明できる。
ま、確かに用明天皇の「ひ孫」では天皇になるには弱々の血なんだろうが、敏達天皇の「娘」だった推古天皇と違って、皇極=斉明天皇も敏達天皇の「ひ孫」とこちらも弱々の血。
「ひ孫」なんて絶対絶対絶対にダメー!!とは言いにくい空気の中で、武力でもって皇位の簒奪が行われたのだとしたら・・・(一般人の感想です)。
つづく