太宰府「九州王朝説」と磐井の乱の考古学

継体天皇と九州王朝説

太宰府天満宮

写真は、2022年夏に家族旅行で参詣したときの「太宰府天満宮」。


最近、継体天皇や磐井の乱について調べる中で知った古代史観に「九州王朝説」があるんだが、その説によれば、邪馬台国を受け継いで北部九州に成立したという「倭国」の首都が、こちらの太宰府だったということだ。


九州王朝説は、有名な古代史家の古田武彦氏が提唱した「多元王朝説」に始まるそうで、神武東征は認めるものの、大和の王朝はあくまで「分家」で、筑紫の「倭国」こそが本家だという歴史観。


日本書紀に書かれた歴史も、実はその多くが筑紫の「倭国」の歴史を「近畿天皇家」が盗用したものだったが、その「倭国」は663年の白村江の敗戦で衰退し、やがて近畿天皇家に吸収されたんだそうだ。

太宰府政庁跡 写真AC

(太宰府政庁跡 写真AC)

現在の九州王朝説は、諸説入り乱れて一口に説明するのは難しい状況だというが、とにかく古代日本の中心地は、太宰府を首都とした北部九州の王朝である!という点では一致している模様(Wikipediaの記述による)。


継体天皇についても、日本書紀の「磐井の乱」とは反対に、九州の本家に反乱を起こした分家の王だとか、九州南部の一豪族だったが太宰府に反乱を起こして政権を簒奪した人物だとか、いろんな説があるらしい。


ま、いずれにしても話の肝は、太宰府が古代日本の中心地だったと認められるかどうか…にあるわけだが、古代文献がああ読める、こう読めるは、ぼくら一般人が正誤を判断するには敷居の高い話題なので、ここは分かりやすい考古学のFACTから、九州王朝説の是非について少し考えてみることにする。

九州から畿内への銅鏡の移動

庄内式並行期の鏡出土地

(出典『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司/2016年)

まずは、邪馬台国で卑弥呼が女王をやっていた3世紀前半、いわゆる「庄内式並行期」の「鏡出土地」。


上の「図26」をみる限り、卑弥呼時代の鏡の出土は北部九州に集中していて、奈良県などは「ホケノ山古墳」から出土した3面だけ、しかもうち2面は「破片」だけというお寒い状況。


それが、台与(トヨ)が晋に朝貢したという3世紀後半から副葬が始まったという「画文帯神獣鏡」の出土状況をみると、形勢はあっさりと逆転して、畿内こそが鏡文化のメッカといっていい状況がうかがえる。

県別「画文帯神獣鏡」の出土数

(出典『データサイエンスが解く邪馬台国』安本美典/2021年)

なので、上の「図27 県別・画文帯神獣鏡の出土数」をまとめられた安本美典さんは、こうした九州から畿内への鏡の移動などの背景には、邪馬台国の畿内への「東遷」があるのだと主張されているわけだが、その説だと3世紀の近畿周辺の歴史と整合しない件が多数でてくるので、ぼく個人はあまり共感できないでいる。

相似形の前方後円墳

3世紀半ばから日本中で造営された前方後円墳には、「相似形」と考えられるものが結構な数、あるという。


例えば、北部九州では最古級とみられる福岡市博多区の「那珂八幡古墳」(75m)は、奈良県桜井市の「纒向勝山古墳」(115m)の4分の3相似形だという説がある。

女狭穂塚古墳復元図

(出典『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年)

また、九州では史上最大の墳丘長176mを誇る、宮崎県西都市の「女狭穂塚古墳」は、大阪府・古市古墳群の「仲津山古墳」(290m)の5分の3相似形。


ついでに書くと、東日本では最大の群馬県「太田天神山古墳」(210m)は、応神天皇陵に治定される「誉田御廟山古墳」(425m)の2分の1相似形だし、天皇陵以外では日本最大の岡山県「造山古墳」(350m)は、履中天皇陵に治定される「上石津ミサンザイ古墳」(365m)の96%相似形なんだそうだ。


つまりは、西も東も地域最大の古墳は畿内の天皇陵(候補)の縮小版ということで、5世紀の日本の中心地をシンプルに物語っているFACTだと思う。

ヤマトと朝鮮半島

安土瓢箪山古墳

九州王朝説においては、中国や朝鮮の記録に載っている「倭」とは九州王朝の「倭国」のことで、高句麗やら新羅やらと戦っていたのも当然「倭国」の九州人で、ヤマトは古墳を造っていただけの人たちだ——というような極端な議論もあったようだ。


もちろん、実際に朝鮮に渡海した主力軍が、距離的に近い九州人だった可能性は否定できるもんじゃないが、いやいや、ヤマトもかなり早い段階から朝鮮とは直接に関わっていたんですよ——ということが分かるのが、350年頃に近江に築造された「安土瓢箪山古墳」(134m)から出土した副葬品だ。


そこからは、朝鮮半島との強い結びつきを示す「筒型銅器」や「方形板革綴短甲」などが出土しているが、その背景には313年に楽浪郡を滅ぼして、本格的な南下政策をスタートさせた高句麗に対処すべく、朝鮮半島南部の勢力がヤマトに急接近してきたことが考えられると、考古学者の佐々木憲一さんが書かれている。

その密な交流は倭人による鉄の確保のためもあったであろう。

高句麗に圧迫を受けた伽耶地域が、ヤマト王権とさらに親しい関係を築いたことの一環として、筒形銅器が伽耶地域と列島とで古墳に副葬されたり、あるいは竪矧板革綴短甲や方形板革綴短甲を製作する工人が列島に渡って来たりしたのではないだろうか。

安土瓢箪山古墳の副葬品は、このように朝鮮半島東南部地域とヤマト王権との関係がより密になったことを象徴しているのではないかと考えられる。


(『未盗掘石室の発見 雪野山古墳』佐々木憲一/2004年)

ヤマトが朝鮮半島に関与していくきっかけは、向こうからやってきたということか。

筑後と上毛野の古墳模様

南筑後の首長墓系譜の消長

(出典『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』柳沢一男/2014年)

古墳時代全域における「筑後」の古墳の消長を表しているのが、上の「図5 南筑後の首長墓系譜の消長」。


久留米や八女といえば、九州王朝説が首都だという太宰府からは南に25キロほどで、十分にその勢力圏に含まれると思われるエリアだが、見てのとおりで、西暦400年頃まではマトモな首長墓が見あたらない。


筑紫平野には、本当にヤマトの「本家」といえるような日本の中心地があったんだろうか。


また、日本書紀が反乱を起こしたと書く筑紫国造・磐井のお墓「岩戸山古墳」(135m)のあと、つまりは「磐井の乱」が鎮圧されたという528年よりあと、筑後の古墳は急速に縮小に向かっている印象があるが、これを単純に古墳が小型化されていく時代の流れ・・・だけでは片付けられない問題だと思わせるのが、下の「図50 上毛野における主要前方後円墳・前方後方墳の編年」。

上毛野における主要前方後円墳・前方後方墳の編年

(出典『東国から読み解く古墳時代』若狭徹/2015年)

筑後では、西暦550年頃の「乗場古墳」(70m)と「鶴見山古墳」(87m)をもって首長墓造営はフェードアウトという印象だが、東国の群馬県では、ちょうど岩戸山古墳と同時期に築造された「七輿山古墳」(145m)のあとも、100m級が広いエリアで造営され続け、「図50」だと7世紀に跨いでいる「八幡観音塚古墳」でも墳丘長が105mある。


5世紀に同じように強勢を誇った二つの地域のうち、「磐井の乱」を起こした筑後には外部から強力な圧力がかけられて、首長墓の系譜が強制終了させられたという印象がぼくにはあるが、どんなもんだろう。

「有明首長連合」と九州王朝

九州の石製表飾出土古墳および採集地

(出典『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』柳沢一男/2014年)

ところで磐井の時代の九州では、「石製表飾」といわれる人物・動物・武具などをかたどった石製品を、古墳の墳丘上に並べたりする行為が流行したのだという。

その分布が、上の「図15 九州の石製表飾出土古墳および採集地」。


また、磐井の乱までの1世紀(つまり5世紀代)のあいだ、有明海沿岸では首長墓に「阿蘇石製の横口式家形石棺」なる埋葬施設が広く使われたのだともいう。

『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』柳沢一男/2014年

こうしたFACTから、考古学者の柳沢一男さんは5世紀の九州に「有明首長連合」と呼べるような結集体が存在し、積極的に西日本各地の有力勢力と交流を持っていた——と主張されている。


その交流を具体的に表すのが下の「図38」で、阿蘇石製の「刳り抜き式石棺」が日本のどこに輸送されたのかが、一目瞭然となっている。

6世紀以前の筑肥型横穴式石室・阿蘇石製石棺の拡散と石棺輸送ルート

(出典『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』柳沢一男/2014年)

このうち「馬門ピンク石製石棺」は、6世紀に入ると継体天皇陵の「今城塚古墳」(190m)を始め、継体天皇の縁者や協力者の古墳にも採用されるほど重用されたというが、さてさて、その時代の太宰府に存在したという九州王朝は、そんな筑後・肥後とヤマトとの繋がりを、ただ指をくわえて眺めていたというんだろうか。

《追記》ヲワケとムリテ

5世紀後半に築造された埼玉県行田市の前方後円墳「稲荷山古墳」と、同時代の熊本県「江田船山古墳」からは、「ワカタケル大王」の名が刻まれた鉄剣が出土している。


「ワカタケル大王」が第21代雄略天皇を指しているというのは定説だが、この件について歴史学者の篠川賢氏の見解はこう。

また二つの古墳は、いずれも五世紀後半から六世紀初め頃の築造と考えられており、ほぼ同時期の東西の古墳から、同一の大王名の刻まれた刀剣が出土したということは、その大王が「畿内」の大王であることを明瞭に示している。


(『大王と地方豪族』2001年)