出雲神話⑥風土記「逸文」に見当たらない「大国主神」
〜因幡国・白兎神社〜
因幡国・白兎神社のオオクニヌシ
鳥取市で「白兔神」を祀る、「白兎(はくと)神社」の鳥居越しにみた日本海(2022秋訪問)。白兎神社の祭神は、言うまでもなく古事記でオオクニヌシに助けられた「稲羽の素兎」こと「兎神」だ。
「稲羽の素兎」は、古事記のなかではいわゆる「出雲神話」の一部をなしているが、当の「出雲国風土記」には出てこない。因幡国での出来事なので、因幡国の風土記の方に載っている(当たり前か)。
ただ、因幡国風土記の本体はとっくに失われているので、運よく他の書物に引用されたおかげで残存する「逸文」の一つとして、「稲羽の素兎」は残っている。
それを大己貴神が気の毒に思いなさって、教えて、「蒲の花をこき散らして、その上に臥して転がれ」とおっしゃった。
教えの通りにすると、多い毛がもとのように生えてきたと言っている。
ワニの背中を渡って数えたことを言うには、兎踏んでその上を読み来て渡ると言っている。
(『風土記(下)』角川ソフィア文庫)
結構長いので、オオクニヌシが登場する最後の方だけ引用してみた。
なぜ(大国主ではなく)「大己貴神」か
さて、逸文なだけに原文がどうだったかの問題はあるものの、一見してぼくが不思議に思ったのは、このオオクニヌシはなぜ「大国主神」じゃないのか、ってことだ。
逸文での呼称「大己貴神」は、主に日本書紀が使うものだが、日本書紀に「稲羽の素兎」の説話は出てこない。
一方、「稲羽の素兎」をその"出雲神話"に採り入れている古事記では、オオクニヌシを「大国主神」(または大穴牟遅神)と呼んでいる。
もしも因幡国風土記が、古事記の説話を転用したというのなら、フツーに書けばオオクニヌシは「大国主神」と書くだろう。それをなぜ、別の本である日本書紀から「大己貴神」という呼称だけ持ってきたのか・・・。
あるいは、古事記の方が因幡国風土記から説話を転用して、オオクニヌシの呼称だけは古事記が使う「大国主神」に入れ替えたというのか・・・。
風土記「逸文」のオオクニヌシ
面白くなってきて、各地に残る風土記「逸文」から、オオクニヌシに関する記述を引用してくると、こんな感じだ。
尾張国
尾張国に登々川(ととがわ)という河がある。
菅清公記にいう。「大己貴と小彦の命とが、諸国を巡り歩き(国作りをした)時、道すがらの足跡が川になったから跡々と名付けた。
注にいう。土地人は、足跡をトトという」といっている。
伊豆国
准后親房の著述で、伊豆国風土記を引用していう。
この国の温泉について、よくよく考えてみると、大昔、天孫が降臨する前、大己貴と少彦名とが、我が日本国民が若く死ぬことを憐れんで、初めて薬になる物と効果のある湯泉を定めた。
伊豆国の神の湯もその一つで、箱根の元湯もこれに入る。(以下略)
丹後国
凡海と号けた理由は、古老が伝えていう。
昔天下を治めた大穴持神と少彦名神が此の地に到りなさった時に、海中の大嶋小嶋を引き集めなさった。
十の小嶋をもって、一つの大嶋となさった。
それで名付けて凡海という。
この国の風土記にある。
伊予国
伊予の国の風土記に記すこと。
湯(伊予の湯―道後温泉)の郡。
大穴持命が、後悔し恥じさせられなさって、宿奈毘古那命を蘇生させたいとお思いになり、大分の速見の温泉(別府温泉の湯)を下樋(地下に理設した管)によって(海底を)通して(ここ道後温泉まで)持って来て、宿奈毘古那命を(温泉の湯に)浸して浴びせたところ、しばらくして生き返った。
(宿奈毘古那命が)声を長くひいて言うことには、「本当にしばらくの間寝てしまったなあ」と言って、しっかりと踏み立った足跡は、今も温泉の中の石の上にある。(以下略)
土佐国
土左国風土記に記すこと。
土左の郡。郡の役所の西の方角へ行くこと四里の所に土左の高賀茂の大社がある。
その祭神の名を一言主の尊だとしている。
その祖先神はよくわからない。
一説では大穴六道(おおなむじ)の尊の御子神である味鉏高彦根の尊であるとしている。
(『風土記(下)』角川ソフィア文庫)
見あたらない「大国主神」
土佐の「大穴六道」なんてのもあるが、他は東国の「尾張」と「伊豆」に日本書紀の「大己貴」が使われ、それよりは出雲に近い「丹後」と「伊予」に出雲国風土記の「大穴持」の呼称がみえる。
・・・が、ここにも古事記の「大国主神」は見あたらない。こりゃ、一体どういうことか。なぜ、古事記のいう「大国主神」を使う人が誰もいないのか。
理由としてパッと思いつくのは、一つは古事記はその序文のいう712年に成立していたが、世間には流通しない「秘本」だった場合。
あるいは、実は古事記は、風土記が編纂された8世紀前半よりももっと後の時代になって、成立したという場合。
こっちを採れば、古事記はいわゆる「偽書」ということになる。
オオクニヌシとアメノミナカヌシ
「偽書」といっても、中味は日本文化の「古層」を伝える本物で、712年に成立したと主張する「序文」だけが後世の付け足しだ、という三浦佑之さんのような立場もあれば、いやいや、本文も現在の形にまとまったのは平安初期だという、大和岩雄さんのような立場もある。
その大和岩雄さんによれば「大国主神」とは、平安初期に確立された「天之御中主神(アメノミナカヌシ)」を造化の主神とする観念に、対応させるかたちでクローズアップされた、観念上の神格なんだという。
天御中主神の主役登場は、大国主神の登場と関連している。
「天主」に対して、「国主」として、天御中主神と同じ発想で作られた神である。
天御中主神は、神話で活躍する高皇産霊神・神皇産霊神を一つにした観念上の神であり、大国主神は、大穴牟遅神、八千矛神、葦原色許男神など神話で活躍する神々を総称した観念上の神名である。
『日本書紀』では、本文には大国主神はまったく登場しない。
(中略)
天の主に対して、国の主である。
(『古事記成立考』大和岩雄/1997年)
なるほど、平安初期に持ち上げられた「観念上の神名」なら、出雲国風土記にも、他の国の風土記にも「大国主神」が出てこないのは、当たり前の話か。
そういえば、日本書紀・正伝(本文)での呼称「大己貴(オオナムチ)」も、アマテラスが初めて登場した際の「大日孁貴(オオヒルメムチ)」の呼称に対比させられていると聞くし、今いち主体性を感じさせない神さまだな、オオクニヌシ。
「その⑦播磨国風土記の4人のオオクニヌシ」につづく