敏達天皇の「日祀部」と伊勢大神

敏達天皇の日祀部

奈良県桜井市の太陽

(奈良県桜井市の太陽 写真AC)

日本書紀によると、第30代敏達天皇はその6年(578年)に詔して、「日祀部(ひのまつりべ)」を置いたという。

置かれた場所には二説あるが、いずれも敏達天皇の「他田(おさだ)宮」のあった奈良県桜井市内。


この「日祀部」とは何かといえば、歴史学者の西宮秀紀氏によれば、「日神の祭祀を掌る皇女に充てられた品部」つまりは「斎宮のための名代」という説もあるが、それが「日神祀部」ではない点などから「毎日父や祖父の祭祀をする品部」が「穏当」だという。

(『伊勢神宮と斎宮』2019年)


もちろん、もっとストレートに「日神」を祀っていた「朝廷の神事団」というような考え方もある。

敏達天皇の宮を他田(おさだ)宮というが、敏達紀6年条には日祀部を設置したとある。

筑紫申真は、日祀部の祀っていた日神は「三輪山に天降って他田で日祭りをうけていた他田坐天照御魂の系統のアマテル」の神で、この日神を天武朝に「伊勢に移転したのが皇大神宮」であるとみる(『アマテラスの誕生』)。


また今谷文雄も「古代太陽神崇拝に関して」(「日本歴史」131号)で、敏達紀の日祀部の設置が意味するのは日神そのものを祀ったということであって、伊勢の皇祖神としての天照大神が祀られたということではなく、用明天皇即位前紀の「酢香手姫皇子を以て、伊勢神宮に拝して、日神の祀に奉らしむ」とある記事の「日神」も、日祀部の祀った太陽神であって、皇祖神としての天照大神ではないとみる。


(『日本の神々 神社と聖地4 大和』1985年)

さらに踏み込んだ説としては「中臣氏を長官とする祭官の品部」(岡田精司)なんてのもあるそうだが、一方で、伊勢神宮の禰宜も務められた櫻井勝之進さんのように、古代皇室における太陽信仰の存在そのものに否定的な意見もあるようだ。


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天皇は「日の御子」か

『天皇はいつから天皇になったか?』

ところで天皇を称える言葉には「日の御子」「日の皇子」があるが、歴史学者・平林章仁さんの『天皇はいつから天皇になったか?』(2015年)を読んだところ、「日の御子」の詞章は日本書紀には全く見られず、古事記でもヤマトタケル・仁徳天皇・雄略天皇にしか使われてない——ということを知ることができた。


それは「天皇・皇子一般に用いられた表現ではなかった」んだそうだ。


これは万葉集でも同様で、「日の皇子」の称辞は「天武天皇とその子・孫の一部」にだけ使われた「きわめて特別な表現」だったのだという。

万葉集

なるほど、そうなると敏達天皇は、自分が「太陽神の末裔」だとは考えてはいなかった可能性があるわけで、「日祀部」も何となく関連がありそうな「伊勢神宮」とか「皇祖神」とか「天照大神」とかとは、実は無関係なような気もしてくる。


ただ日本書紀には、雄略・継体・欽明・敏達・用明の各天皇が、皇女に「伊勢大神」の祭祀をさせたという記述が出てくるわけで、じゃあその「伊勢大神」と「日祀部」との関係ってどうなんよ?という疑問もわいてくる。

伊勢神宮、創建の通説

『アマテラス——最高神の知られざる秘史』斎藤英喜

そこでまず、伊勢神宮が創建されるまでの「通説」を紹介すると、ザッとこんなかんじらしい。

たとえば直木孝次郎氏によれば、崇神、垂仁天皇の3世紀後半から4世紀には、大和から遠く離れた伊勢地方にまで、大和朝廷の力はそれほど及んでいなかったので、そこに天皇家の先祖を祭るはずはない。

したがって、伊勢の地に皇祖神が祭られるのは、大和朝廷の力が伊勢、東国地方にまで拡大していく5世紀後半、雄略天皇の時代ごろが推定される。

伊勢の地が選ばれたのは、そこが東国進出の拠点となったからであり、伊勢地方は古くから太陽信仰のメッカであったからである。


そして伊勢神官が、現在のような内官・外官に分かれ、大宮司・禰宜・内人などの祭祀組織が成立したのは、7世紀後半の天武・持統朝の律令国家形式期であろう、というのが歴史学の見解である。現在では、こうした見解がほぼ通説となっている。


(『アマテラス——最高神の知られざる秘史』斎藤英喜/2011年)

引用した斎藤英喜さんの直木説の要約によれば、5世紀後半に雄略天皇が伊勢に祀ったのは「皇祖神」だということだ。


となると、雄略〜用明紀に出てくる「伊勢大神」とは、皇祖神・アマテラスの別名?ということになるが、それは本当にホントのことなんだろうか。

纒向時代〜神功皇后と「天照大神」

檜原神社

(檜原神社)

先に、雄略天皇より前の時代の「天照大神」について触れておくと、まず神武東征のころ、その神は「天」にいて、夢を通じて神武天皇の偉業に協力した。

でもこれは、神話と歴史の境界が混ざり合っていた時代の話だろう。


それから数百年が経ち、第10代崇神天皇のときの「天照大神」は「倭大国魂」と並んで宮中で祀られていたが、疫病が蔓延して国が乱れたとき、その対処策として皇居の外で祀られることになった。


やがて疫病の主犯「大物主」は、「倭大国魂」ともども適切な神主に祀られることで鎮められたが、どういうわけか「天照大神」が皇居に戻されることはなかった。


つづく第11代垂仁天皇のとき、「天照大神」は皇女ヤマトヒメに伴われて鎮座地を探す旅に出され、近江・美濃と彷徨ったあと「天照大神」本人の希望によって、伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座することになった。


垂仁天皇の子、第12代景行天皇はその20年(長浜浩明さんの計算で西暦300年ごろ)、「五百野皇女」を遣わして「天照大神」を祀らせている。

廣田神社

(廣田神社 写真AC)

それから半世紀が過ぎ、景行天皇の孫・第14代仲哀天皇が「神のお言葉を採用されなかったので、早くお崩れになった」とき、正妻の神功皇后が夫に祟った神々を「降ろした」ところ、四柱のなかに「神風の伊勢国の百伝う度逢県の拆鈴五十鈴宮におります神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」という長い名前の神がいた。


これらの神を神功皇后が再び降ろしたとき、その神の名が「天照大神」であることが判明し、その神の命によって、その荒魂を「広田国」(兵庫県西宮市の廣田神社の地)にお祀りしたという・・・。


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五十鈴川

(五十鈴川 写真AC)

ま、この一連の流れを見る限り、ここまでの「天照大神」は皇祖神なんて大層なものじゃなく、「大物主」や「倭大国魂」と同じような「土地の神」だったものが、ヤマトへの服従の証として差し出され、皇居で祀られていた(管理されていた?)ような印象がある。


ただ、いざその神を元の土地に返そうとしたところ、どこの神だったのかが曖昧になっていて、やむを得ずヤマトヒメが諸国を巡って、それが伊勢の地方神だったことを突きとめた———んじゃないだろうか。


この「天照大神」は皇祖神ではないので、皇孫である仲哀天皇を祟り殺すことには何の躊躇もなかったのだろう。

伊雑宮

(伊雑宮)

仲哀天皇に祟った四柱は、「天照大神」の他には「稚日女尊」「事代主尊」「住吉三神」だったが、このうちワカヒルメは、折口信夫によれば「伊雑宮」で祀られていた「志摩」の海人の神とのことで、もしも「天照大神」が伊勢の海人の神だったとしたら、四柱のうち三柱が、海人の神ということになる。


それなら、陸続きの九州の熊襲を攻めるよりも、海の向こうの新羅を攻めるほうが海人の地位向上の機会が増えるわけで、三柱の神々にもメリットがあったのかも知れない・・・。

雄略天皇〜用明天皇と「伊勢大神」

五十鈴川

(五十鈴川 写真AC)

・・・というような経緯が先にあって、第21代雄略天皇が「伊勢大神」の祠(やしろ)に「稚足姫皇女(栲幡姫皇女)」を仕えさせることにしたわけだが、この間の応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康の約100年、日本書紀で伊勢の祭祀が話題になることは全くなく、気がつけば神の名も「天照大神」から「伊勢大神」に変わっていた。


そして雄略天皇3年(460年)、伊勢で信じられない大事件が起こる。なんとその「伊勢大神」に仕える皇女が強姦され、妊娠したというのだ。


幸い、この件はすぐに「讒言」だったことが証明されるんだが、気の毒な皇女は「神鏡」を五十鈴川のほとりに埋めると、首をくくって自害してしまうのだった・・・。

いつきのみや歴史体験館

(いつきのみや歴史体験館 写真AC)

さて、斎藤英喜さんが要約した直木説によれば、そろそろ伊勢では「皇祖神」への祭祀が始まっていたことになるわけだが、日本書紀にはとてもそうは思えない事件が記されている。


相次ぐ皇女(斎王)への、「リアル」強姦事件だ。


継体天皇が「荳角(ささげ)皇女」を送り出したときには無事故だったが、続く欽明天皇の「磐隈(いわくま)皇女」は「皇子茨城」に強姦されて、解任。

さらにつづく敏達天皇の「菟道(うじ)皇女」も「池辺皇子」に強姦されて、解任された。


要するに、この皇子・皇女たちは、皇族にとって大事な大事な「皇祖神」の目の前で姦通したということで、これ、若者たちの無軌道な性欲を嘆くよりも、彼らにとって、そこは「聖地」ではなかった———と見たほうが正解に近いように、ぼくには思える。


つまり、5世紀後半から6世紀に伊勢で祀られた「伊勢大神」は、「皇祖神」ではない(?)。

伊勢大神「地方神」説への批判

筑紫申真『アマテラスの誕生』

しかしそうなると6世紀の「伊勢大神」は、伊勢の「地方神」だったことになるが、それを真っ向から否定しているのが、上掲の平林章仁さん(『天皇はいつから天皇になったか?』)。


その理由はシンプルなもので、「地方神」を「皇祖神」に昇格させたところで、天皇の「宗教的優位性」の確立には繋がらないから。


んでこのときダイレクトに批判されているのが、上の方の引用にも出てくる筑紫申真『アマテラスの誕生』(1962年)なんだが、引用にもあるように筑紫氏は、三輪山に天降った日神を「伊勢に移転したのが皇大神宮」だと主張されているので、単純な地方神「昇格」論者ではなさそうだ。


同じく地方神説の論者とされる岡田精司氏も、伊勢の地方神なのは「外宮」の神で、「内宮」は畿内から祭場を移して新設されたもの、と書かれているので、やはり単純な地方神「昇格」論者ではなさそう。

外宮

(外宮)

なお筑紫氏は、7世紀末の持統天皇のころまで、伊勢で祀られていたのが「皇祖神」ではない理由として、ザッと4点を挙げられているが、これ、かなり反論が難しい話のような印象がある。


①大化の改新のあと、伊勢の「神郡」は20郷から16郷に減らされている。

②「伊勢大神」は持統天皇に「税金免除の嘆願」をしている。

③7世紀前半の50年間、天皇は斎宮を出していない。持統天皇も斎宮を出していない。

④皇極天皇4年(645年)に現れた「猿」の群れが、飛鳥の人々に「伊勢大神の御使」だと騒がれたのは、当時の伊勢大神がまだ「天ツ神・山の神」だと認識されていたから。

猿の群れ

(猿の群れ 写真AC)

平林さんは「神郡設置は神社の存在が前提であり、この時には、天照大神を祭る伊勢神宮が存在していたのは確か」だとおっしゃるが、その「天照大神」が果たしてぼくらが知るような「皇祖神」だったかどうかは、また別の問題であるような気もする。

皇祖神は入れ替えられたか

もう一点、平林さんの説明でいまいち腑に落ちなかったのが「皇祖神入れ替え説」への批判。


そこで平林さんは「(天孫降臨の司令神に)天照大神が登場する伝承は天皇家に近い立場からのものであり、タカミムスヒが登場する話はそれから距離のある伝承である」という説を「至当である」と書かれている。


でもそれだと、平林さんの本に掲載されている、下の「図表5」でタカミムスビを単独の司令神としている日本書紀「本文」(正伝ともいう)こそが「天皇家」から「距離のある伝承」ということになってしまい、何が何やら分からなくなる。

天孫降臨神話における神々

(出典『『天皇はいつから天皇になったか?』)

常識的に考えれば、各章のトップに記される「本文」こそが、皇室が公認する(オリジナルに近い)伝承だと思われるわけで、ならば元々の天孫降臨伝承には、タカミムスビとニニギしか出てこなかったんだろう。


そしてそれは、日本書紀が多くの人の手によって編纂されたという経緯を考えたとき、当時の上級国民の共通認識だったんじゃないかと、ぼくには思えるのだった。


つづく


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