乙巳の変は(中大兄ではなく)孝徳天皇が起こしたクーデターか  

〜遠山美都男『新版大化改新』〜

和泉・河内の中臣氏

大鳥大社

写真は2023年春に参詣した、大阪府堺市の「大鳥大社」。

旧官幣大社で、和泉国の一宮だ。


「白鳥伝説」にもとづいて日本武尊を祀ることで知られる大鳥大社だが、もともとの祭神は中臣氏の祖神「天児屋根命(アメノコヤネ)」だったと考えられているようで、理由は当社の祭祀氏族「大鳥連」が中臣氏の同族だから。

(『日本の神々 神社と聖地3』)

枚岡神社

んで、こっちの写真は当の中臣氏が「アメノコヤネ」を祀ってきた「枚岡(ひらおか)神社」で、東大阪市に鎮座する旧官幣大社にして、河内国の一宮。


藤原氏の「春日大社」と同じく4座の本殿が横一列に並ぶ配置だが、当社では初めに神階を受けたのはアメノコヤネと比売神だけで、武甕槌神と経津主命は除外されていたそうだ。


そのアメノコヤネが従一位に昇ったのも、春日大社のアメノコヤネより6年も後、ということで、藤原鎌足直系の「春日大社」と、傍系の中臣氏の「枚岡神社」では、明らかな差をつけられていたのだとか。

摂津三島と中臣氏同族の分布

(出典『新版 大化改新』遠山美都男/2022年)

さて、現在の大阪府に鎮座する三社の一宮のうち、住吉大社をのぞく二社に中臣氏の関与があるということで、このエリアと中臣氏の縁は深い。


日本書紀によると、皇極天皇3年(644年)に「神祇伯」に任命された中臣鎌足は、それを再三固辞すると「三島」に隠棲したとあるが、それは当時の摂津国島上郡、いまの大阪府高槻市に比定されてるようだ。


鎌足はそのころ、皇極天皇の弟で、のちに孝徳天皇として即位する「軽皇子(かるのみこ)」と親交があったというが、鎌足の伝記『藤氏家伝』には軽皇子を「度量の大きさは、ともに大きな事業を企てるには不十分」などと書いていて、鎌足はより優れたリーダーを求めて「中大兄皇子(天智天皇)」に近づいたとある。

『新版 大化改新』遠山美都男/2022年

が、いやいや『日本書紀』や『藤氏家伝』には天智天皇アゲの作為があって、実は乙巳の変(大化改新)の首謀者は「政変直後に即位した軽皇子(孝徳天皇)だった」ということを、1993年の著書『大化改新 —645年6月の宮廷革命ー』以来、ずっと主張されているのが、歴史学者の遠山美都男さん。


今回ぼくが読んだのは、2022年に刊行された『新版 大化改新』で、女帝権力や王位継承の変遷などの再評価を含め、大幅な書き換えが試みられているそうだ。


んで読後感はというと、これぞプロの学者による「逆説」といったかんじで、この時代に知識のない一般人でも十分に楽しめる内容だった。なのでぼくなりにチョロっと紹介したいんだが、その前に古代の大阪平野の地図を一枚。

西暦400年頃の河内湖

(出典「まっぷるウェブ」)

当時は今よりずっと平野が少なく、ぼくらのイメージより居住可能エリアはかなり近接していたんじゃないかと思う。ちなみに孝徳天皇の「難波宮」は、図の大阪城のごく近くだ。

孝徳天皇と中臣氏

生國魂神社

(生國魂神社 2020年夏)

日本書紀によれば、孝徳天皇は「仏法を尊ばれ、神々の祭りを軽んじられた」らしいが、その理由は「生國魂社」の木を伐採したからだという。

現在の生國魂神社は難波宮の南1キロほどに鎮座しているので、この話にはリアリティがある。


ところで孝徳天皇というと、大化の改新では中大兄と鎌足の「傀儡」として即位したものの、やがて中大兄と対立すると、中大兄の妹でもある皇后「間人皇女」含めて飛鳥に還都されてしまい、置き去りにされた難波宮で一人寂しく死んでいった気の毒な天皇———というイメージで日本書紀は描いている。


・・・と言っても、皇后に逃げられた翌年の10月に崩御するまでの間、鎌足に冠位を与えたり、遣唐使を盛大に送り出したり、帰国した遣唐使をもてなしたり、と普通に政務をとられているので、「憤死」とか「悶死」とかの類いではないだろう。


孝徳天皇のお父さんは、敏達天皇の孫にあたる「茅渟王(ちぬのおおきみ)」という皇族で、遠山さんによれば「王権の直轄地の一つ茅渟県(ちぬのあがた)に由来する」名前からして、のちに元正天皇の「珍努宮(和泉宮)」が造営された、現在の大阪府和泉市内に宮居があり、軽皇子もそれを相続して拠点としていたと考えられるという。


上の方の「中臣氏の分布」にあるように、当時は軽皇子の宮を「囲繞」するように中臣氏同族が分散・割拠していたそうで、茅渟王/軽皇子と中臣氏の関係は、地縁に基づく「深く強靭なもの」だったという。


正史『続日本紀』には、文武天皇が藤原不比等に言った言葉として「孝徳天皇に鎌足が仕える様子は、あたかも武内宿禰のようであった」なんてのも載っていて、孝徳天皇と中臣鎌足の固い絆は後世でも語りぐさになっていたようだ。

孝徳天皇と阿倍内氏、蘇我倉氏

あべのハルカス

(あべのハルカス 写真AC)

乙巳の変/大化改新で「得をした人」は、孝徳天皇・中臣鎌足の他にも、蘇我入鹿の権力を二分割して、左大臣に就任した「阿倍内麻呂」と右大臣に就任した「蘇我倉山田石川麻呂」がいる。


阿倍内麻呂は娘の「小足媛(おたらしひめ)」を軽皇子に嫁がせて「有馬皇子」の母にしているが、それは乙巳の変の5年前のこと。クーデターよりかなり前から、両者には深い関係があったようだ。


阿倍内麻呂には「大鳥大臣」の通称もあるが、これは和泉国大鳥郡に居住したことから来たもので、難波宮に近い「阿倍野」の地名も、そこが阿倍内氏の勢力圏だったことを示しているのだという。

山田寺仏頭レプリカ

右大臣の蘇我倉山田石川麻呂も、軽皇子に娘(乳娘)を嫁がせていて、その勢力基盤は名前の通りの河内国石川郡の山田。


蘇我倉氏は蘇我氏の分家で、朝廷の「倉」の出納・管理を職務とした一族だそうで、貢納品のなかには朝鮮諸国からのものも当然含む。

なので、入鹿殺害の現場で三韓の上表を読み上げたのは「蘇我倉氏が世襲する職掌に由来する」もので、クーデターには必要不可欠の人物だった。


日本書紀は、鎌足の発案で蘇我倉の娘を中大兄が娶ることで、仲間の一人に取り込んだと書くが、遠山さんは「むしろ麻呂がクーデターの中心メンバー」だったから、入鹿暗殺の現場に朝鮮三国からの貢納に関わる儀式が選ばれたのだろうと言われる。主客転倒だ。

飛鳥時代の武人

なお、入鹿暗殺の実行犯のひとり「佐伯子麻呂」は石川郡佐備郷に居住していて蘇我倉氏に近く、もうひとりの「葛城稚犬養網田」は「犬を飼育・調教して宮門や倉庫の警備にあたった犬養部を率いる伴造豪族」なので、やはり倉の出納・管理にあたった蘇我倉氏に職務上、近い。


日本書紀は、この両者を鎌足が中大兄に推挙したと書くが、蘇我倉氏が中大兄(というか軽皇子)に推挙したと考えたほうが話がスムーズなようにも感じられる。

友だちの輪にいない中大兄皇子

入鹿斬殺

阿倍内、蘇我倉の両大臣が没したあと、左大臣に就任した「巨勢徳陀古(こせのとこだこ)」と右大臣「大伴長徳」も、遠山さんによれば軽皇子(孝徳天皇)との間に強固な主従関係があり、いずれも和泉や住吉に拠点を持っていた。


また、孝徳政権で「国博士」に任命された「僧旻(そうみん)」は河内の安曇氏と縁があって「阿曇寺」で死去しているが、その安曇氏の拠点は石川郡山代郷にもあって、蘇我倉氏に近い。


同じく国博士の「高向玄理(たかむこのくろまろ)は、河内国錦部郡に居住していて、同時に渡来して先祖を同じくする氏族が和泉国大鳥郡を拠点としている。

難波宮

(難波宮 写真AC)

———ということで、友だちの友だちは〜と辿っていくと、みな軽皇子と地縁でつながってしまう大化改新の関係者だが、この友だちの輪に入らない人が一人いて、それが日本書紀がリーダーだと書く中大兄皇子だ。


日本書紀は何ごとにも中大兄皇子を主語にするが、仮に中大兄と鎌足の出会いが「虚構」だったとした場合、「中大兄とクーデター派を結びつけるものは、軽皇子との叔父・甥の関係のみ」と遠山さんは言われる。


そしてクーデター派のリーダーが軽皇子であることは、大化改新のあと、なぜ都が飛鳥から難波に移ったかを考えれば、容易に理解できることらしい。

クーデター政権はそれまで歴代の大王宮が営まれてきた飛鳥を離れて難波に出て、そこに壮麗な難波長柄豊碕宮を造営する。

これについては唐の勃興を契機とする東アジア情勢の激動に対応するには飛鳥よりも難波のほうが都合よかったという点が強調されるが、それに加えてクーデターを起こした勢力の拠点の多くが難波に近い摂津・河内・和泉地域にあったことが大きく関係していると見られる。

彼らはクーデターによって政権を獲得した後、彼らの勢力圏内にその政権の威容を誇示する大王宮を建造したのである。

クーデター政権が飛鳥と訣別し、難波に移った一事を取って見ても、クーデターの首謀者が誰であったかについて通説を疑わせる材料になるであろう。


(『新版 大化改新 乙巳の変の謎を解く』遠山美都男/2022年)

乙巳の変の真相

蘇我入鹿の首塚

(蘇我入鹿の首塚)

んで、ここからは「乙巳の変」の真相について、遠山説をササッと紹介したい。


まず、山背大兄王の殺害は、皇極天皇の命令を受けた蘇我入鹿が、群臣には諮らずに独断で実行したもので、その目的は蘇我系の「古人大兄皇子」を次の天皇にするため。


古人大兄は、舒明天皇が蘇我氏の娘との間にもうけた皇子で、舒明ー皇極の嫡子・中大兄がまだ20歳と若く、即位には早いことから、入鹿と皇極の間で手打ちされた妥協案。


だがそれで皇位が完全に遠ざかってしまったのが軽皇子だったというわけで、要は乙巳の変とは「古人大兄の即位を阻止」を目的とした皇位継承を巡るクーデターで、「大王家対蘇我氏」のような権力闘争ではない———というのが、遠山さんのお考えだ。


なので、クーデター派の殺害目的には、古人大兄その人も入っていたはずだと。

飛鳥寺ジオラマ

入鹿を惨殺したクーデター派は蘇我氏の「飛鳥寺」を本陣に定めるが、この行動は「蘇我氏としての結束の精神的な支柱」を奪い、「クーデター派に対する反撃の経済的基盤」を奪い、「蝦夷の立て籠もる甘樫岡」と「古人大兄が逃走した大市宮」の連絡を遮断する効果のある、見事な作戦だったという。


かくして、乙巳の変の当日(6月12日)遅くか、翌13日早朝に、全てを諦めて保身に走った古人大兄が「出家」してしまったことで、「旗印(大義名分)」を失った蘇我蝦夷が自害に追い込まれる。


そしてその翌日14日には、皇極天皇から軽皇子への「史上最初の生前譲位」が行われているんだから、これは皇極天皇も承知していた「所期の日程」だったんじゃないか、と遠山さんは書かれている。たしかに手際が良すぎる気がする。


まとめてみれば、こう。

(略)「乙巳の変」とは軽皇子を次期大王に推す勢力が、武力行使によってその障害物を除去し、皇極から孝徳へという我が国史上最初の計画的な生前譲位を断行しようとしたものであった。

『日本書紀』や『家伝』上の筋書きによれば、クーデターに派生して提起されたように描かれた皇位継承問題、すなわち皇極譲位・孝徳即位こそがクーデター派が達成しようとした究極の目標なのであった。

 したがって、クーデターを断行した人びとの脳裏に律令制国家に直結する明確な国政改革のプランがあったか否かとなると、状況としては否定的にならざるをえない。

少なくともクーデターを起こした主要な動機自体が国政改革の実行でなかったことは本文中に述べた通りである。


(『新版 大化改新 乙巳の変の謎を解く』遠山美都男/2022年)

甘樫丘バス停

こうして武力による皇位の簒奪を目指した軽皇子のクーデターは成功したわけだが、654年に孝徳天皇が崩御すると、翌655年には皇極天皇がもういちど斉明天皇として即位する。


この展開からは、もともと皇極天皇の即位自体が中大兄皇子への「中継ぎ」だったが、乙巳の変を機に「強制退位」させられた———というような旧説は考えにくい、と遠山さんはおっしゃっていて、なるほど確かにその点について賛成なんだが、問題は、孝徳天皇崩御の時点で30歳に達していた「皇太子」がなぜに即位せずに、斉明天皇の「重祚」になったのか・・・だろう。


この点について遠山さんは、中大兄皇子が史上初めて「血縁ではなく血統」で即位するから、それに「相応しいプロセスを荘厳に準備する必要があったから」といわれるんだが、その説明はぼくら一般人にはちょっとピンと来ない(と思う)。


そこで他の本を見てみると、もっとシンプルに中大兄が孝徳天皇の「皇太子」じゃなかったから・・・などとあって、そっちの方がぼくら一般人には分かりやすい気がするので、次回その本の感想文などを。


『偽りの大化改新』中村修也〜乙巳の変虚構説〜につづく