倭の五王③済
〜允恭天皇の盟神探湯と『アマテラスの誕生』〜
允恭天皇の盟神探湯
2023年春に見物してきた奈良県明日香村の「蘇我入鹿首塚」。その時は全然気に留めなかったんだが、写真の奥に見える丘こそが、日本書紀に出てくる「味橿丘(甘樫丘)」だったようだ。
允恭天皇4年(長浜浩明さんの計算だと435年頃)豪族たちの氏姓の乱れに業を煮やした允恭天皇は、群臣たちに甘樫丘での「盟神探湯(くかたち)」を命じたという。
盟神探湯とは泥を釜に入れて煮沸させ、手でかき回して泥の底を探ったり、あるいは斧を真っ赤に焼いて手のひらを置いたりすることで、発言の真贋を見分ける方法らしい。真実を言うものには何も起こらないが、嘘を言うと大けがを負うのだとか。
日本書紀が残す、この時の允恭天皇の詔は以下のとおり。
群卿百寮および諸国造たちが、みなそれぞれ、あるいは帝皇の裔であるとか、あるいは異しくして天降った者の裔であるとか言っているが、天地人のはたらきが顕われ分かれて以来、多くの歳月がたった。
そのため、 一氏が蕃息して、さらに万姓となっている。その真実を知ることはむつかしい。
そこで、もろもろの氏姓の人どもは、沐浴斎戒して、それぞれ盟神探湯をせよ。
(『日本書紀』井上光貞)
高皇産霊尊は輸入された朝鮮の神か
さてこのサイトで何度か取り上げた本に、溝口睦子先生の『アマテラスの誕生』(2009年)がある。
7世紀後半(天武朝)に始まった、高皇産霊尊(タカミムスビ)から天照大神(アマテラス)への「皇祖神」の変更について論じている本で、あちこちで引用を見かける名著だ。
ぼくも何度も読んでとても勉強になった一冊だが、何度読んでも納得できない点もある。
それがアマテラス以前の皇祖神・タカミムスヒが、5世紀前半に北方ユーラシアの遊牧民に共有されていた「天の至高神」を、朝鮮半島経由で輸入した神だという部分。
もちろん、そのタカミムスヒが主宰した天孫ニニギの降臨神話も、朝鮮神話からのパクリだという。
結論からいえば、新しい政治思想、すなわち王の出自が天に由来することを語る「天孫降臨神話」は、この時期に、当時朝鮮半島きっての先進国であり、かつ、先述のように、日本が主敵としてつよく意識していた、当の相手の高句麗の建国神話を取り入れる形で導入されたのではないかと私は考える。
そう考える最大の理由は、両者、すなわち高句麗の建国神話と日本の神武東征を含む建国神話との類似である。
両者は、全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている。
(出典『百舌鳥野の幕開け』堺市/2011年)
ではなんでヤマトは「天の至高神」と「天孫降臨」を輸入することになったのか。
溝口先生によれば、そのきっかけは「好太王(広開土王)碑」に刻まれている、400年、404年の対高句麗戦でのヤマトの大敗にあったという。この敗戦で皇室の「権威」と「権力」は激しく揺らぎ、失墜した。
それをカバーするために導入されたのが、天皇の出自は「天」に由来する高貴なものだ!という血統第一主義で、天の至高神として創作されたのがタカミムスヒだという話だ。
その意味で、つまり観念的な「制度」「思想」として、五世紀は、日本の歴史が父系制社会へ、血統の重視へ、世襲制へと大きく舵を切った一大転換期であった。
そして、大王の出白・血統が「天」に由来することを語る天孫降臨神話は、その「制度」の頂点に位置していたと私は考える。
でまぁ引用みたいなかんじで、ベテランの学者先生に断言調でつらつら説明されると何となく納得してしまうのがぼくら一般人というものだが、最近ようやく倭の五王の時代の本を読んだりしたところ、溝口説では実態に合わない点が幾つかあるような気がしてきた。
3点あげてるみると、こんなかんじだ。
①「民のかまど」と土木工事
(堺市の仁徳天皇の像 写真AC)
溝口説によると、400・404年と続いた高句麗戦の大敗北は、ヤマトの「権威」と「権力」を揺るがしたわけだが、その抜本的な変革は「倭王讃」の宋への入朝(421年)より前に行われたとのことで、要は仁徳天皇(長浜さんの計算で在位410-428年)の時代にあたる。
じゃあその時代のヤマトが本当に「権威」や「権力」を失っていたかというと、日本書紀をみる限り、そんな印象は全然ない。
(大山古墳 写真AC)
仁徳天皇といえば「民のかまど」の説話から「聖帝」といわれるほど善政をしいた天皇というイメージがあるが、一方で、大規模な土木工事を連発し、国土強靱化を推進した天皇でもある。「茨田堤」とか「和珥池」、「横野堤」に「感玖大溝」などが記録に残されている。
とどめは百舌鳥の超巨大前方後円墳だ。
仁徳陵といわれる「大仙陵古墳」は墳丘長525m、三重濠を含めた総長は850mで、世界最大級のお墓の一つ。大林組の試算では、墳丘築成にはのべ670万7000人が動員され、一日あたり2000人とすると15年8ヶ月は要しただろうとのこと。
しかも5世紀前半に造られた大型古墳は仁徳陵だけじゃなく、400m超が一基、300m超が二基、200m超は・・・数えるのが面倒なほどだ。
吉備や日向、上毛野などに畿内古墳と相似形の大型墳墓が造られたのも、この時代の話だ。
もしも5世紀前半のヤマトが「権威」や「権力」を失っていたら、この展開はないような気がする。
②倭の五王、宋に官爵を求める
(高津宮 写真AC)
中国の史書『宋書』には、5世紀の「倭王」が相次いで宋に朝貢して冊封体制に入り、官爵を求めてきたという記録がある。
421年の倭王「讃」は自分の「倭国王」と「安東将軍」だけだったようだが、438年の「珍」は自分以外にも13人分の将軍号を求め、追認されている。
さらに451年の「済」は人数を23人に増やした上、将軍号とあわせて地方向けの「郡長官(郡太守)」の任命も求めている。
つまりはこの時代の上級国民は、中央でも地方でも、天皇より上位に宋の皇帝が君臨することを知っていたわけで、そこに天皇の血統は天の至高神に由来し———とか言われても、何一つリアリティは感じられないんじゃないだろうか。
実際、允恭天皇の盟神探湯の詔の中にも「異(あや)しくして天降った者の裔(すえ)」を自称する豪族がでてくるわけで、王の出自が天に由来するなんてのは「枕詞」みたいな常套句で、果たして溝口先生が謳い上げるような最新の政治思想だったかどうか、ぼくには疑問が残る。
③継体天皇と血統主義
(出典 イラストAC)
溝口先生によれば、5世紀に朝鮮半島から輸入した「天孫降臨神話」によって、日本は「父系制」「血統重視」「世襲制」へと大きく舵を切ったのだという。
でもそれだと、506年に即位した継体天皇の立場はどうなるんだろう。
継体天皇は応神天皇の5世孫ということで、たしかに「天の至高神」タカミムスヒの血を継いではいるというものの、即位する前は越前〜近江〜尾張の地方豪族に支えられた一勢力に過ぎず、「父系」とか「世襲」とか言われると、さすがにそれは当てはまらないような印象がある。
ならば継体天皇を擁立した大伴や物部、地方豪族たちは、神話は神話と割り切って、あくまで現実的に動いていたことになるんじゃないだろうか。
あるいは天孫降臨神話のことなんて、ハナっから忘れていたとか?
※ちなみに継体天皇以前に、自分は即位してないが、その子が天皇になった皇族にヤマトタケル(仲哀天皇)と市辺押磐皇子(顕宗天皇・仁賢天皇・飯豊天皇?)がいるが、どちらも風土記では「倭武天皇」「市辺天皇」と呼ばれている点は興味深い。
北方ユーラシアと中国の「天」
(霧島神宮の古宮址)
ところで溝口先生によれば、日本が輸入したという北方ユーラシアの「天」と、中国の「天」との間には「本質的な違い」があるのだという。
まず中国の「天」はこういうもの。
中国の「天」観は、殷・周以来の長い歴史をもち、その間にさまざまな説が生まれて変化・発展を遂げているが、諸子百家の時代から漢代にかけての「天」は、儒家の善なる意志をもった道徳的で人格的な天と、墨家の祥瑞や災異を下す天とを総合したものだということである。
その中国の「天」観の源流の一つである殷の「上帝」は、白川静氏や松丸道雄氏によると、占いに答える神であって、いわば「宇宙の意志」の如きものを形象化した概念といえるようである。
したがってこの神は、その意味での絶対神であり世界の根源者であって、自然の一部であり、自然そのものである太陽や月などとは、まったく次元を異にしている。
つづいて、日本が輸入したという北方ユーラシアの「天」は、こういう説明。
護雅夫氏によると、北方遊牧民が崇拝する天・上天の神は「テングリ」とよばれるが、それは同時に、天そのものをも表し、「頭上をおおう天空そのものが神として観念されているらしい」ということである。
おそらくそのためにこの神は、上述のように太陽と言い換えられたり、月と言い換えられたりすることができた。それらはみな自然の一部である点で同質だからである。
太陽や月は天の中心にあって、彼らにとっては、「天」をいわば代表する存在だった。
んーあくまで個人の感想だが、上のどちらが「高天原」や「タカミムスビ(orアマテラス)」のイメージに近いかといえば、ぼくには中国の「天」の方が近いように思える。
というか溝口先生は完全否定されているが、中国の民間思想・道教の「天」が、高天原のイメージに一番近いんじゃないだろうか。
道教においては、天は神々の住む場所であり、また、人がその得道の程度に応じて到達することのできる理想の境地でもあるとされた。
(『道教思想10講』神塚淑子/2020年)
道教なら日本人は弥生時代から親しんできている。
邪馬台国の卑弥呼が使った「鬼道」は道教的な何かだと聞くし、奈良県の弥生ムラ「唐古・鍵遺跡」から発見された「褐鉄鉱」容器とヒスイの勾玉には、道教の神仙思想の影響が見られるのだという。
このようにみると、地域や時代は異なるが、唐古・鍵ムラの人たちも褐鉄鉱内部の粘土を仙薬とみなしていた可能性が高い。
また、生命の象徴ともいえる緑色のヒスイ勾玉二点を納入していたことも仙薬との関係で理解でき、弥生の人たちにとってこの褐鉄鉱の内容物が重要であったことを物語っている。
紀元前後のヤマトの「唐古・鍵」の人たちは、中国の神仙思想・仙薬の知識をとり入れ、実践していた可能性があり、大陸からの文物のみならず精神的な部分も受け入れていたことになる。
(『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎/2019年)
ぼくらが愛読する『安曇族と徐福』(亀山勝/2009年)によれば、弥生時代中期には中国の「呉人」たちが頻繁に日本列島を訪れて、大陸からヒトとモノを運び込んだのだという。
その中にはおそらく、体系化される前の道教的な何かが含まれただろうし、道教的な「天」の観念が含まれてた可能性だって、頭ごなしの否定はできないようにぼくには思える。
「倭の五王④興 〜安康天皇と市辺天皇、佐紀、世子」につづく