白村江の敗戦と唐の占領政策

〜中村修也『天智朝と東アジア』〜

唐に支配された?「白村江」後の日本

甘木鉄道「甘木駅」

写真は2022年春に立ち寄った、福岡県朝倉市の甘木鉄道「甘木駅」。

あの頃は邪馬台国に興味があった時期で、駅から2キロ南に広がる「平塚川添遺跡」の見学が主な目的だった。


朝倉市は、古代史家の安本美典さんが卑弥呼の都の所在地だとする地域で、駅前には「日本発祥の地 卑弥呼の里あまぎ」の石碑があった。

「日本発祥の地 卑弥呼の里あまぎ」の石碑

朝倉市にはもう一つ有名な史跡があって、それが駅から5キロ東南にある「朝倉橘広庭宮」。


660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再興を支援するため、第37代斉明天皇が飛鳥から移ってきた宮———だとされるが、地理的には筑紫平野の最奥部にあたり、博多港(那大津)からは50キロも離れた立地。


661年7月に斉明天皇が崩御すると、中大兄皇子(天智天皇)はすかさず海に近い福岡市「長津宮」に移っているので、朝倉宮の存在理由は今いち良く分からないらしい。

鈴木治著『白村江』(1972年)

というわけで、話題は「白村江の戦い」へ。


といっても戦闘自体は総勢40万の唐軍に、全部合わせても4万2千の日本軍が突撃をかけて壊滅した・・・というだけのもので、問題はそのあと。


定説では、敗戦後も日本と唐の関係は良好で、日本は大いに唐の文化を吸収して、律令国家と天平文化の花を咲かせた———というわけだが、いやいや唐がそんな甘い国のはずはなく、「郭務悰」が率いる2000人の「政治工作隊」を上陸させると、大和朝廷に対してGHQさながらの内政干渉と間接統治を行ったのだ!というのが鈴木治著『白村江』(1972年)。


著者の鈴木さんは美術史がご専門で、薬師寺の「金堂三尊像」は当時の唐における最新の仏像様式で作られているが、天武朝14年、持統朝11年、前後合わせて30年は遣唐使が断絶した「断交期間中」だったのに、一体それはどうやって日本に入ってきたのか?という疑問を抱えていたんだそうだ。


んで、考え抜いた結論が「実際には白村江の戦い以後、唐のLST船が随時日本に来ていた」。だから、最新式の仏像も建立できたのだ、というもの(※LST船=戦車揚陸艦)

薬師如来坐像『国宝の美11』2009年

(薬師如来坐像『国宝の美11』朝日新聞出版/2009年)

鈴木さんによれば、白村江で主力軍が壊滅した天智朝は、唐の支配を受け入れるしかなく、天智天皇ご自身も唐の政治工作隊の手で「暗殺」されてしまったのだという。むろん白村江で歯向かってきたことへの懲罰的報復だ。


弟の天武天皇も、唐の支援を受けて壬申の乱に勝利したものの、「かいらい」として政治力を剥奪された「祭祀的君主」の座に甘んじるしかなく、684年に企てた信濃への遷都で、唐の支配からの卒業を目指したものの、それは儚くも頓挫に終わってしまったのだった。


天武天皇のあとは、未成年の皇子や女性の即位が続いたが、これも唐が操りやすい人材をチョイスした結果で、何とこうした支配は菅原道真が遣唐使を廃止するまでの約230年間も続けられたんだそうだ。

『天智朝と東アジア』中村修也

以上、鈴木治さんの”唐GHQ説”をざっと紹介してみたが、ヒジョーに興味深いことは確かながら、美術史の先生が美術史上の疑問を解決すべく構築した議論なので、歴史の論証としては正直、大ざっぱなもの。


それを、同様の着想から、専門家ならではの精緻な分析と大胆な仮説で検討しているのが、日本史学者・中村修也『天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ』(2015年)だ。


現在の定説では「日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに唐と友好関係を保ち、唐の律令を導入して国力の充実をはかった」というが、中村さんはそれは「戦争の常識を覆す論理」で、戦勝国が敗戦国になにも要求しないなんて、まかり通らないといわれる。


実際には日本も唐の「羈縻政策(きびせいさく)」による支配を受けたが、それが本格化する前に外部的要因のおかげで唐が撤退し、からくも独立を維持できた———というのが中村説で、そこからぼくら一般人でも理解しやすい論点を挙げてみるなら3点か。

①朝鮮式山城と大宰府

鬼ノ城 写真AC

(鬼ノ城 写真AC)

日本書紀によると、663年(天智3年)に白村江で大敗した日本に、つ、ついに唐からの使者が来たのが翌664年(天智4年)の8月のこと。百済の戦後処理が片付いた唐の方面軍から送られてきた「郭務悰(かくむそう)」は、位は低いがGHQなら差し詰めマッカーサーに当たる立場か。


日本書紀はこのとき、郭務悰が「上表文」を奉った・・・なんて書くが、中村さんにいわせれば「要求書なり命令文であった」。


実際、「上表文」を受け取った年、対馬・壱岐・筑紫には「防人」と「烽(のろし)」が置かれたとあるが、すでに敗戦を認めている日本側に、今さら朝鮮半島と九州を結ぶ連絡基地(烽)を新設する必要はない。


なのでこの「烽」は、唐の側が自分たちの連絡用に設置したものだと考えるべき、と中村さんはいわれる。


また、同じ記事に筑紫に「水城」なる堤防を築いて水を貯めたとあるが、この時点ではその水城に守られる南側に、「大宰府」はまだ存在していない(天武朝で建設)。

大宰府跡周辺図

(大宰府跡周辺図)

翌665年(天智4年)8月には、のちの大宰府の北に「大野城」、南に「基肄城(きいじょう)」という朝鮮式山城が築かれるが、日本書紀によると、これらを監督したのは百済人の「憶礼福留」と「四比福夫」。


なので中村さんは、それらを作らせたのは「唐王朝あるいはその出先機関の熊津(ゆうしん)都督府以外には考えにくい」とおっしゃる。


それであらためて当時の大宰府周辺の地図を見てみれば、唐の侵攻からの「防御施設」あるいは「逃げ込み城」としては、大野城も基肄城も内陸に入り込みすぎていて、これじゃ唐の大艦隊はガン無視して、まっすぐ大和を目指せてしまうことが分かる。

大野城 写真AC

(大野城 写真AC)

んじゃ、大野城はいったい何を守るために築かれたものなのか。


すでに日本(特に九州)の兵力は壊滅状態で、籠城しても援軍が来る見込みはない。唐が攻めてきたなら、大野城に立てこもって飢え死にするよりは、熊本や大分に逃げてった方が助かる見込みが高さそうだ。


なので中村さんのお考えは、大野城と基肄城は、のちの大宰府の地に駐屯する予定だった「唐軍」と「筑紫都督府」を守るための山城ではないか、というもの。


日本書紀には、大野城の築造につづく記事で、郭務悰が254人のスタッフを連れて筑紫入りしたとあるが、GHQが着々と地歩を固めていってる印象ありだ。

朝鮮式山城の分布

(朝鮮式山城の分布)

667年11月には、大和に「高安城」、讃岐に「屋島城」も築かれたとあるが、中村さんは、この程度のものが「どのような防御力を発揮できるというのであろうか」と首を傾げる。


上の方に朝鮮式山城の一つ「鬼ノ城(鬼城山)」の写真を貼っておいたが、確かに狼煙はよく見えるんだろうが、周囲に守るべきものはなにもない印象。唐軍もきっと、存在すら気づかずにスルーしていくことだろう。


なお、同じ記事にはモロに、百済の「熊津都督府」から「筑紫都督府」に使者が移動したことが、日本書紀に記載されている。

②『懐風藻』の大友皇子

『懐風藻』講談社学術文庫

『旧唐書』によれば665年(天智4年)、白村江で日本軍をボコボコにした「劉仁軌(りゅうじんき)」という将軍に連れられて、新羅・百済・耽羅・倭の「酋長」たちが、唐の「泰山封禅」という儀式に参席させられたのだという。


だが、このときの倭の「酋長」とは誰のことなんだろう。


中村さんはそれを、天智天皇の皇子で、壬申の乱の敗者「大友皇子(弘文天皇)」だろうとお考えで、その根拠となるのが、奈良時代に成立した最古の漢詩集『懐風藻』の「伝記」。

大友皇子は天智天皇の第一皇子である。遅ましく立派な身体つきで、風格といい器量といい、ともに広く大きく、眼はあざやかに輝いて、振り返る目もとは美しかった。

唐からの使者、劉徳高は一目見て、並外れた偉い人物と見てこういった。

「この皇子の風采・骨柄をみると世間並みの人ではない。日本の国などに生きる人ではない」と。

(『懐風藻』講談社学術文庫)

「劉徳高(りゅうとくこう)」は、二回目の使節団(郭務悰ら254人)を率いて来日した外交官で、大友皇子はその人に「観相」してもらったと「伝記」はいうわけだが、問題はそれがいつのことなのか。


『新羅本紀』には、「泰山封禅」に先立って、旧百済の熊津で「就利山の会盟」が行われ、新羅・百済・耽羅・倭の4カ国が「同盟」させられたとあるが、前後関係からみて、このときの熊津都督府で大友皇子は劉徳高に会い、観相してもらった可能性が高い、と中村さんはいわれる。


なお、4カ国は「就利山の会盟」で同盟した———というと聞こえがいいが、実態は各国の代表者が「敗戦処理の調印」をさせられたと中村さんはお考えだ。

日本書紀は当たり前のこととして大友皇子の業績には触れていないが、国の代表として、このぐらいの大役は果たしたからこそ、壬申の乱で多くの忠誠心を集めることができたのだろうと、ぼくも思うところだ。

③近江遷都の理由

近江神宮楼門 写真AC

(近江神宮楼門 写真AC)

667年(天智6年)、天智天皇は都を滋賀県の「近江大津宮」に移した。


定説では「唐が攻めてきた場合、大和では近すぎて、すぐに危険な状況が生まれるから」とされるが、じゃあ滋賀県が奈良県に比べてどんだけ安全かといえば、ほとんど大差ないだろう。琵琶湖からなら日本海や東国に逃げやすいというが、逃げた先に巻き返しの材料なんて、残っているもんだろうか。


それに近畿の人ならご承知のように、琵琶湖と比叡山に挟まれて極めて狭い近江宮は、唐軍どころか天武天皇の軍勢でさえ容易に攻略できてしまった、専守防衛には向かない立地。籠城戦など不可能だ。


なので中村さんは「近江遷都ではなく、飛鳥京の譲渡であり、近江への強制移動」が実態だろうとお考えだ。


日本書紀には「近江遷都」の5ヶ月後のこととして、天智天皇の「倭の京(飛鳥)」への行幸をのせているが、これは要するに、首都を占拠しているGHQ本部に呼び出されて、何らかの打ち合わせでもしたのだろうと(昭和天皇とマッカーサーみたいに)。


打ち合わせの結果か、唐の通信基地だと中村さんがいわれる大和の「高安城」が築かれたのは、その3ヶ月後のことだった。

日本を救った新羅の反攻

近江神宮拝殿 写真AC

(近江神宮拝殿 写真AC)

668年(天智7年)9月、とうとう高句麗が滅亡すると、余裕が出たか、唐は本格的な「羈縻政策」を実施すべく、翌669年(天智8年)には郭務悰が2000余人を筑紫に上陸させてきた。

天智天皇は、腹心の蘇我赤兄を「筑紫率」に任命して、進駐軍の応対をさせる。


671年(天智10年)正月には、大友皇子の「太政大臣」就任を始めとした新人事が発表されるが、中村さんが「不思議」だと言われるのが、以下のメンツ。

法官大輔・・・余自信・沙宅紹明

学職頭・・・鬼室集斯

兵法・・・達率谷那晉首・木素貴子・憶禮福留・答㶱春初

医薬・・・㶱日比子贊波羅金羅金須・鬼室集信・達率德頂上・吉大尚

五経博士・・・許率母

陰陽博士・・・角福牟

見ての通りで、法官・兵官など国家の中枢を担う重要なポストが、ことごとく「旧百済人」で占められている人事は、日本書紀がその直前に記している百済占領軍の「劉仁願(りゅうじんがん)」が寄越してきた「上表」、すなわち命令書に書かれたものではなかったか・・・というのが中村さんの推察だ。

近江神宮社号標 写真AC

(近江神宮社号標 写真AC)

———というわけで、このままでは完全な属国化は間違いなし!という大ピンチに、ふいに救世主が現れた。何と、唐と組んで百済・高句麗を滅ぼした新羅が、朝鮮半島の統一を目指して唐への攻撃を始めたのだった。


新羅が半島から唐を追い出したのは678年のことなので、671年末に崩御した気の毒な天智天皇は、この国の未来を憂いながら亡くなったことになるが、とにかく672年5月には日本どころではなくなった郭務悰らが帰国した。


すると、唐のケツの穴をなめるような近江政権の弱腰には、いいかげん腹に据えかねていた豪族の不満を吸収し、一大勢力に集結させた大海人皇子(天武天皇)が立ち上がり、あっという間に近江朝を打倒すると、都を飛鳥に戻したのだった。

めでたしめでたし。

鞠智城 写真AC

(鞠智城 写真AC)

・・・といったあたりで、中村修也著『天智朝と東アジア』の紹介は終わり。


中村さんの本を読むのは3冊目になるが、ぼくら一般人が「定説」を聞いて、そりゃ無理筋の説明では??と思うような点に、多分に推測は含むものの、いたって納得の行く合理的な解釈がなされていて、毎度毎度、視野が広がっていくような思いを抱かされる。


また機会があったら別の本も読みたいもんだ。


天武天皇は天智天皇の「異父兄」か 〜大和岩雄『天武天皇出生の謎』〜につづく