継体天皇は皇位(政権)を簒奪したか
〜実年齢・系譜・本拠地〜
少年「男大迹王」は17歳で即位?
写真は福井県坂井市の式内社で「三國神社」(写真AC)。
日本書紀によれば、早くに父を亡くした継体天皇は、生まれた近江高島を離れ、母の実家のある越前三国の坂井中で養育されたのだという。
さらに日本書紀によれば、三国で58才をむかえた継体天皇は、大阪府枚方の「樟葉(くすは)宮」で第26代天皇に即位して、在位25年の春に、82才で崩御したのだという。
(樟葉宮跡の杜 枚方市公式サイト)
ところが不思議なことに日本書紀は、本当は天皇は在位28年(534年)に崩御とする予定だったものを、『百済本記』の記述を受けて、在位25年(531年)崩御に変更したのだという。
どうやら継体天皇の崩御年には、二つの説があったらしい。
それで久しぶりに我らが羅針盤「長浜浩明さんの計算」を開いてみたところ、雄略天皇の時代から使う「暦」が変更されて、継体・安閑・宣化の「在位年数」については皇紀の「実年」でOKになったものの、「年齢」については依然として、春と秋に加齢する「春秋年」で表されたままなんだそうだ。
つまり継体天皇は82才ではなく、在位28年の534年に、41才で崩御したというのが長浜さんのお考えだ。
そもそも日本書紀の82才崩御説では、継体天皇の即位は50代後半ということになり、その年齢から何人もの若い妃を娶り、何人もの子を産ませるって、異常性欲の色ボケじじいというしかない。
だが41才崩御となれば「即位年は14、5歳となり説明可能となる」というわけだ。
しかし、その場合に問題になるのは、即位前に尾張の「目子(めのこ)媛」とのあいだに生まれている、安閑天皇と宣化天皇の誕生年だろう。
継体天皇が14歳で即位となると、安閑天皇は継体天皇が9歳の時の子、宣化天皇は10歳の時の子となって、これはこれで異常性欲の怪物くんだ。
なのでぼくは、継体天皇の崩御年は日本書紀が最終的に採用した、在位25年(531年)でいいように思う。
それなら継体天皇の即位は17歳で、安閑が12歳、宣化が13歳の時の子ということで、まぁ精通もあるし毛も生えていて、異常性欲の変態クソ野郎とまでは言われずにすむ。
17歳の上級国民が多くの女性と子作りに励むのも、この時代ならむしろ奨励されることだろう。
ちなみに古事記の方は、継体天皇は527年に43歳で崩御(=23歳で即位)と書いてあって、今回ばかりは古事記の方が(ぼくと)意見が合うようだ。
稚野毛二派皇子の一族
(継体天皇石像 足羽神社公式サイト)
だが、仮に継体天皇が17歳で即位したとなると、説明が難しくなるのが、即位時点での「実力」だ。
継体天皇は、日本書紀の言うように58歳という初老で即位したからこそ、越前から尾張に広がる豪族たちを束ねあげて、強大な勢力を築くだけの時間があったことになるわけで、田舎住まいの17歳の少年にはさすがに無理な話だろう。
もちろん、言われるような「政権の簒奪」だって不可能なはずだ。
(隅田八幡神社 橋本市観光協会)
ところが、和歌山県橋本市の「隅田八幡神社」が所蔵する「人物画像鏡」には面白い銘文が刻まれているそうで、歴史学者の平野邦雄さんの研究によると、503年に百済の「武寧王」が、大和の「忍坂」にいた「孚弟王(ホド王)」すなわち、のちの継体天皇のためにこの鏡を作った——という意味になるそうだ。
それが本当なら、503年に13歳の継体天皇は、即位したばかりの百済王から鏡を贈られるようなポジションを、ヤマト内部に築いていたことになる。
それはもちろん、継体天皇ご本人の力によるものではなくて、生まれる前からご実家に備わっていた地位によるもの、と考えるのが自然だろう。
(出典『検証!河内政権論』堺市/2017年)
上の図45は、記紀と上宮記を元にした「5世紀の天皇系譜」。
応神天皇の5世孫とされる継体天皇のご実家は、応神天皇の皇子で仁徳天皇の弟?にあたる、「若野毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)=稚野毛二派皇子」に始まっている。
この皇子の母親は、古事記によれば近江の豪族の娘で「息長真若中比売」といい、皇子ご自身も、母の妹にあたる息長氏の娘と結婚したのだという。
この時代は、いわゆる「倭の五王」が中国の宋に朝貢していたという頃で、このうち二番目の倭王「珍」(反正天皇か)は、自分の分以外に13人の臣下の将軍号も要望して、皇帝に許されている。
で、このとき、13人の臣下のうちで、ただ一人だけ名前が記録されているのが「倭隋」なる人物。
この人を、天皇を支えるナンバーツーの皇族(王)だろうと考えたとき、記紀から探せば「若野毛二俣王」がまず挙げられると、ぼくは思う。
若野毛二俣王は、すでに近江の豪族・息長氏と親子二代の姻戚関係を結んでいて、「宮家筆頭」「天下の副将軍」みたいな立ち位置で、北陸道と東山道の入口をがっちり固めていたんじゃないだろうか。
(写真AC)
若野毛二俣王の娘が、第19代允恭天皇の皇后となった「忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)」で、第20代安康天皇と、第21代雄略天皇の母親だ。
忍坂大中姫は近江・坂田の出身で、日本書紀によれば、独身時代に自分に無礼な発言をした男を皇后になってから探しだし、死罪にしようとした強烈なキャラの持ち主だ。
ぼくは、安康天皇のお墓が奈良市の「佐紀古墳群」に造営されたのは、この母が、実家の英雄「神功皇后(息長帯比売命)」の墓所であり、息長氏の奈良盆地での勢力圏である当地をゴリ押ししたからだと思っているんだが、ついでに安康天皇と雄略天皇の荒っぽい性格も、お母さんからの遺伝なんじゃないかと疑っていたりもする。
意富富杼王と彦主人王のお墓
(太田茶臼山古墳 茨木市公式サイト)
上の写真は、宮内庁が継体天皇陵に治定している大阪府茨木市の前方後円墳で、「太田茶臼山古墳」。5世紀中ごろの築造で、墳丘長226mは全国でも21位というランキングだ。
しかもこの古墳、「古市古墳群」で宮内庁に允恭天皇陵に治定される「市野山古墳」(227m)と「同形」なのだという。
5世紀中ごろの築造では、531年or534年崩御の継体天皇陵ではあり得ないとして、じゃあどこの誰が、「允恭天皇陵」とほぼ同じ大きさで、同じ形の巨大古墳を造れたのだろう。
その被葬者について、歴史学者の和田萃さんは「継体の曾祖父オオイラツコ」だといい、考古学者の森田克行さんは「曾祖父にあたる意富富杼王(おおほどのおおきみ)」だという。
(『春日井シンポジウム⑦継体王朝』2000年/『継体大王とその時代』2000年)
実はこの両者は同じ人物の別名で、要は「若野毛二俣王」の子で、「忍坂大中姫」のお兄さんに当たる人物だ。古事記にはオオホド王は、越前の三国君や近江の息長坂君の祖先だと書いてある。
というわけで、どうやら継体天皇のひい爺ちゃんは、摂津茨木に天皇陵クラスの巨大古墳の造営を許される人物だったようだ。
允恭天皇が454年ごろ崩御なので、同世代のオオホド王が5C中ごろの古墳に眠るのはタイミング的にも問題ない。
(鴨稲荷山古墳 滋賀・びわ湖観光情報)
所かわって滋賀県高島市の前方後円墳で「鴨稲荷山古墳」。
墳丘長は50m強と小ぶりだが、刳り抜き式の家形石棺をはじめ、ビックリするほど豪華な副葬品が出土したことで有名で、考古学者の森浩一さんは、継体天皇の父「彦主人王(ひこうしのおう)=汙斯王」のお墓の可能性を指摘されている。
(『春日井シンポジウム⑦継体王朝』2000年)
彦ウシ王は、長浜さん式の「春秋年」でも5世紀末に薨去された人物で、6世紀前半の築造とされる「鴨稲荷山古墳」だと年代が合わない。
が、淡路島の「早良親王陵」のように、後から立派に作り直したケースもあることから、これほどの副葬品は彦主人王にこそふさわしいと、森さんはお考えのようだ。
ただ、日本書紀には近江高島は彦主人王の「別業(別邸)」とあるので、本拠地でないところに終のお墓を造るものなのか、多少の疑問も残らないでもない。
(断夫山古墳 名古屋市公式サイト)
さらに所かわって、名古屋市熱田区の前方後円墳で「断夫山(だんぷさん)古墳」。その墳丘長は愛知県では最大級の151mで、築造年代は6C前半。
被葬者はもちろん、当時いよいよ愛知県全域に勢力を広げつつあった尾張氏のトップ「尾張草香(おわりのくさか)」。
・・・あるいはその娘で安閑・宣化二帝の母となった「目子媛(めのこひめ)」、もしくはその合葬か、と諸説あるようだが、とにかく尾張氏の誰かだ。
ところで(繰り返しになるが)継体天皇のバックには、この尾張氏や、近江の息長氏や坂田氏、越前の三国氏など多くの豪族の存在が想定されているが、父の彦主人王は継体天皇が「幼年」のうちに薨去されたというのに、そこから17歳での即位までに、越前の片田舎で母親と暮らす一介の少年に、そんな豪族連合を構築するような政治力が身に付いていたとはチト考えにくい。
日本書紀によれば、継体天皇の協力者には「河内馬飼 荒籠(かわちのうまかいの あらこ)」なる人物がいるが、「馬飼」を厩務員のように考えてはダメで、「今でいうとトヨタ自動車の社長ぐらい」の地位だと、森浩一さんが上手い喩えをされている。
天孫ニニギはなぜ赤ちゃんで降臨したか
前回の記事では、尾張氏と皇室が「兄弟」になっている系図として、古事記の「天火明命」とニニギの系図を持ち出してみた。
歴史学者の遠藤慶太さんなどの説によると、複数あった神話や皇統譜が整備・統合されたのは、安閑〜欽明期からとのことで、その頃のリアル皇統譜が神話に反映されたのが、上の系図かと考えてみた次第。
ところが8世紀初頭、南九州の「隼人」と最終局面を迎えていた朝廷では、隼人の精神面での取り込みを図ったか、古事記がニニギの兄だという「火明命」を、日本書紀ではニニギの子として一段下げた。
すると系図はこう変わるんじゃないか。
アマテラスの長男「天忍穂耳尊」は、いざ天子降臨という土壇場になって急にキャンセルしたので、代わりに赤ちゃんだったニニギが天孫降臨したというのが、日本の記紀神話。
もしかしたら5世紀末の現実にも似たような事件が起こっていて、皇統の危機に備えてバックアップされていたのが「若野毛二俣王」の血統だったが、いざ応神天皇四世孫の「彦主人王」が即位に向けての準備を始めたところ、突然の死・・・。
慌てて大伴金村や物部麁鹿火が駆けつけてみたら、そこには可愛い赤ちゃんの継体天皇が———。
・・・もちろん、何の根拠もない空想だ。
ただ、尾張氏や息長氏を束ねたり、近江や美濃の鉄資源を確保したり、トヨタ自動車の社長と手を組んだり、畿内豪族と連絡していたのは「彦主人王」であって、17歳の少年は、父の築いた全てを受け継いで即位したんじゃないか、という印象がぼくにはあるわけだ。
※大伴や物部が彦主人王に目を付けたのは、子どもができなかった清寧天皇(在位480〜485年)の頃か。
継体天皇が生まれたのが491年頃なので、彦主人王が薨去したのは495年前後か。
継体天皇が尾張目子媛を娶って、安閑天皇が生まれたのが503年頃か。
以上、個人の感想です。
継体天皇は皇位を「簒奪」したか
(今城塚古墳 たかつきナビ)
上の写真は、継体天皇の本当のお墓だというコンセンサスのある、大阪府高槻市の「今城塚古墳」。
墳丘長190mの前方後円墳だ。
摂津の北部を「三島平野」というそうだが、継体天皇の一族は「若野毛二俣王」の時代から、代々「三島」を本拠地として、淀川や琵琶湖の水運、河内の馬、東国の鉄、越前から朝鮮への日本海航路などを掌握し、ヤマトの経済力を支えてきたんじゃないか———というのが、今回、いろいろな学者さんの説を乱読してみての、ぼくの感想だ。
日本書紀によれば、継体天皇は晩年になるまで「三島」を中心に活動したようだが、淀川や木津川に近いその皇居は「のちの平安京のような立地条件を先取り」していた、と森浩一さんは書かれている。
そしてそんな継体天皇が日本書紀がいうように、最終的に交通の便のひどく悪い大和「磐余玉穂宮」に本当に入ったのかどうかには、疑問が残るんだそうだ。
(『継体大王と尾張の目子媛』1994年)
昭和の頃は、継体天皇は皇室とは血のつながらない越前の地方豪族だったが、強大な経済力と軍事力を背景にして、威圧的に皇位を「簒奪」した・・・という説が有力だったそうだ。
しかしそんな説は、その後の研究で継体天皇一族の本拠地が「太田茶臼山古墳」や「今城塚古墳」そして最初の皇居「樟葉宮」のある、大阪府枚方市〜茨木市〜高槻市あたり(=三島)と考えられるようになった昨今、かつての説得力を失って久しいように、ぼくには思えるのだった。