天孫降臨は朝鮮神話のサルマネか
(三国史記の高句麗建国神話)
「天孫降臨」は北方アジアから?
2020年春に参詣した、天孫ニニギを祀る官幣大社で「霧島神宮」。
皇室の起源を語る「天孫降臨」神話を、5世紀ごろに北方ユーラシアで共有されていた、「支配者起源神話」を朝鮮半島経由で取り込んだものだとする説がある。
当時のヤマトは高句麗との戦争に敗れたばかりで、揺らいでいく権威と権力を取り戻すために、新しいイデオロギーを必要としていた。
それで導入されたのが、当の高句麗の「天の至高神」と「その実子の地上への降臨」という神話だった、という話だ。
ヤマトと高句麗の建国神話
この件について、よく引用されている溝口睦子先生の『アマテラスの誕生』(2009年)にはこう書いてある。
結論からいえば、新しい政治思想、すなわち王の出自が天に由来することを語る「天孫降臨神話」は、この時期に、当時朝鮮半島きっての先進国であり、かつ、先述のように、日本が主敵としてつよく意識していた、当の相手の高句麗の建国神話を取り入れる形で導入されたのではないかと私は考える。
そう考える最大の理由は、両者、すなわち高句麗の建国神話と日本の神武東征を含む建国神話との類似である。
両者は、全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている。
(『アマテラスの誕生』2009年)
なるほど、溝口先生の説の根拠は、ヤマトと高句麗の建国神話の「類似」にあるということのようだ。
それも「細部にいたるまできわめてよく似ている」といわれるわけで、それなら丸ごと比較してみるのが話が早いだろう。
では、現存する朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』から「高句麗本紀」を引用する。
最古と言っても高麗時代の1145年に完成したもので、「日本書紀」より425年も後の成立だが、これしか残ってないので仕方ない。
始祖東明聖王の姓は高氏で、名は朱蒙である(または鄒牟、または衆解ともいう)。
これより先、扶余(満洲松花江流域)王、解夫婁は子が無かったので、山川に祭祀をして、嗣子を乞うた。
ある日、王の乗った馬が鯤淵に至って大きな石を見て涙を流した。
王はこれを怪しみ、人をしてその石をころがしてみた。
小児がいた。金色に輝き、形は蛙のようであった(蛙をまた蝸ともいう)。
王は喜んで、「これは天がわれに、あとつぎをくれたのだ」といって、その子を拾って育てた。
名を金蛙とつけ、長ずるにおよんで、太子とした。
後にかれの宰相、阿蘭弗が王に「この頃、日輪が天からおりてきて私にいうには、"将来、わが子孫をしてここに国をたてるから、汝等はここから去るがよい。東海の浜に土地がある。迦葉原という。土壌が肥え、五穀をつくるに適し、まさに都とすべきなり"といいました」といった。
阿蘭弗はついに王に勧めて、都をかの地に移し、国号を東扶余とした。
その旧都に一人の男が、どこから来たか知らないが、自ら天帝の子、解慕漱と称し、来て都とした。
解夫婁が薨じるや、金蛙が王位を継いだ。
この時に、金蛙王は太白山の南、優渤水で、一人の女に出会った。
誰かときくと、かの女は「わたしはもと河伯の娘で、名を柳花といいます。弟たちと外に出て遊んでいる時、一人の男が来て、自ら天帝の子、解慕漱といいながら、わたしを熊心山の下へ誘って、鴨緑江辺りの部屋の中へつれて行き、わたしのからだをおかしました。
それから、かれは去って行って帰ってきません。わたしの父母はわたしが仲人もたてないで、男のいうことをきいたと責め、おい出すので、ついに優渤水にながし人となっています」と、答えた。
金蛙はこれを怪しみ、部屋の中に幽閉しておいた。日の光が照るので、からだを避ければ、日の光がまたついてきて照らした。
それによってはらみ、一個の卵をうんだ。大きさが五升くらいあった。
金蛙王はこれを棄て、犬や豚に与えても、みな食べなかった。
また道の中に棄てた。牛馬がこれを避けて通った。
後に野に棄てた。鳥たちがきて翼でこれを覆うので、王はこれを割ってみようとしたが、割ることができなかった。
ついにその母にかえしてやった。
その母(柳花)は、物で卵を覆い、暖かい所に置いたところ、一人の男の子が殻を破って出て来た。
体つきが立派で風貌に気品があった。
七歳の時からは断然ひとと異なり、自ら弓矢を作って射をよくし、百発百中であった。
扶余の俗語に、善く射る者を朱蒙といったので、朱蒙と名付けた。
金蛙王には七人の子がいた。
(『三国史記(中)』林英樹/三一書房)。
(霧島神宮・古宮址)
・・・んー、似てるかな?これ。
登場人物を整理してみると、まず「天帝」から国を明け渡せと(なぜか家来の夢を通じて)命じられた解夫婁(カイフル)が、オオクニヌシに相当する。
んでカイフルの子、金蛙がコトシロヌシ役。
「天孫降臨」してきたニニギに該当するのは解慕漱(カイボソウ)で、この男が河の神の娘に生ませたタマゴから、神武天皇に該当する朱蒙(シュモウ)が生まれる??
これら登場人物が織りなす「全体の枠組み」をまとめれば、「天帝」に国を奪われたオオクニヌシの子、コトシロヌシが、国を奪った天帝の孫を育てたものの、能力に嫉妬して殺そうとしたが逃げられる???
うーむ、わけが分からん。
これ、ほんとにヤマトが高句麗の神話をパクったという説の、学問的な根拠になってるんだろうか。
朝鮮神話と古事記
まぁ溝口先生に限らず、昭和の神話学者のあいだでは、日本神話と朝鮮神話はなんだか似ているぞ、という議論は多々あったようだ。
でもぼくはそれは、「日本神話」じゃなくて「古事記」が似ているんじゃないか、という気がしている。
例えば「天孫降臨」で、アマテラスがニニギに与えたという「三種の神器」とかニニギの降臨に付き従った「五伴緒(いつとものお)」は、朝鮮神話にも出てくるぞ!と言われるが、それらは正史・日本書紀の「正伝(本文)」には出てこない。
また、ニニギが降り立った高千穂の「久士布流(くしふる)岳」は朝鮮神話の「亀旨(クイムル)峰」と関係があるぞ!と言うが、これも日本書紀「正伝」では「槵日(くしひ)」と書いてあって、これを似てると言うのは強弁というもんだろう。
また、古事記で槁根津日子(さおねつひこ)が、「亀」にのって現れて神武天皇を助けた件は高句麗の建国神話にもあるぞ!というが、日本書紀「正伝」では彼は「舟」にのって現れたと書いてある、などなど。
こうしてみると、古事記は朝鮮神話に似てるというより、故意に、似せさせられている・・・そんな疑惑さえ湧いてくる。
隼人と渡来人
(隼人塚)
ヤマトがその勢力を拡大する過程で、部族の「神話」を奪われた人たちは大勢いたという。瀬戸内の海人族をはじめ、伊勢、葛城、出雲なんかが挙げられるだろう。
そして記紀の編纂がすすめられていた8世紀初頭は、南九州で抵抗を続けてきた「隼人」が、今まさにヤマトに屈する直前だった。
鹿児島在住の歴史家、中村明蔵さんによれば、記紀の「日向神話」は、隼人の神話をベースに構想されているのだそうだ(海幸山幸の「日向神話」は隼人の神話か)。
(高麗神社・将軍標)
んで、その隼人より少し前に、やはり民族の独立を失った人たちがいた。新羅による半島統一で、7C中葉に相次いで滅亡した百済(660年没)と高句麗(668年没)の人たちだ。
このうち百済については、西暦400年前後の応神天皇の時代から、渡来人として日本に住んだ人もいた(王仁など)。そうした朝鮮からの渡来人の神話を、古事記が取り込んでいった可能性はないもんだろうか。
海人のように、伊勢のように、出雲のように。
一説によると、古事記の原型は蘇我氏に伝わる「天皇記(帝紀)」だというが、蘇我氏が積極的に渡来人を登用したのは有名な話だ。
古代では、「神宝」を奪われることは部族の降伏を意味したというが、「神話」だって同様だろう。神話を取り込むことで、懐柔すると見せかけて実は精神面までをも支配する。
その結果として、古事記は朝鮮神話への親和性を持つようになった・・・とか?
※古事記と朝鮮神話の親和性については、「秦氏」の関与の可能性があると聞いたので、こちらの記事の《追記》に書きました。西暦242年頃、天日槍(アメノヒボコ)来日