鹿児島で火山を祀る神社
(霧島・桜島・開聞岳)
霧島神宮「古宮址」
2020年春。
火山の本場、鹿児島県で、神社で何がどう祀られているのか、実際に自分の目で見てこようと出かけてきた。
鹿児島空港で降りて、まず向かったのは「霧島神宮」だ。
と言っても、お目当てはゴージャスな現社殿じゃなくて、さらにクルマで5kmほど登った先にある、高千穂河原の「古宮址」の方だ。
上の写真は、霧島連峰への登山口でもある鳥居で、背後に見えるのは大正時代まで噴火を繰り返してきた火山「 御鉢(火常峰)」。
ここでは良い体験ができた。
駐車場に着いたときは霧島連峰が肉眼で見えていたのが、あっと言う間に一面の霧に覆われてしまい、数メートル先も見えなくなったのだ。
この地が「霧島」と呼ばれる理由も、 天孫ニニギが降臨した舞台だと言われる理由も、モロに実感できた。
ぼくらは古宮址を目指して、ひたすら足下に気をつけながら歩いたのだが、向こうからふいに天孫ニニギが現れても不思議ではない、何とも神秘的な空間を体験できたのだった。
鳥居から100mほど山道を進んで右に曲がると古宮址、「天孫降臨神籬斎場」についた。
1234年の御鉢の大噴火で社殿が焼失して放棄されるまで、ここが「霧島神宮」だったというわけだ。
この時はまさに五里霧中状態で何が何だか分からなかったが、駐車場に併設されたビジターセンターに置かれたパンフレットの表紙をみれば、古宮址が御鉢と(その向こうの)高千穂峰を「遙拝」するための神社だということが分かる。
ためしに「古宮址」でググってみれ ば、神籬斎場の真後ろに御鉢がそびえ立つ写真が、いくらでもUPされている。
そして言うまでもないことだが、現在の霧島神宮も、御鉢・高千穂峰を背負う向きで建てられている。拝殿前に立って頭を下げれば、誰もが自然に山々を遙拝することになる。
ここには、そういう「意思」がある。
桜島の「黒神埋没鳥居」
桜島では、有名な「黒神埋没鳥居」を見物した。
元は高さ3mの普通の鳥居だったものが、大正3年(1914年)の大噴火で下2mが埋まってしまい、現在は笠木部分の約1mだけが見えている。
つまりは、ここら一帯にあったもの全部が、火山灰で2m地下に埋まってしまったということだ。近隣には民家も学校もあったが、その火山灰の上に建てたものなんだろう。
開聞岳の枚聞神社
薩摩国一宮という「枚聞(ひらきき)神社」は、写真を見ての通りで、一の鳥居から本殿へと真っ直ぐに続く参道の延長線上に、開聞岳(かいもんだけ)という休火山がそびえ立つ。
この神社も開聞岳の874年の大噴火で被害を受けて壊滅し、一時は10kmほど東に避難していたこともあるらしい。
だが、そのままその場所にいれば安全なのに、またわざわざ山麓に再建したところを見ると、この神社が開聞岳を遙拝するための存在であることは疑いようがない。
・・・うむ、やはり火山の本場では火山こそが信仰の対象なのだ、と納得したぼくらだったが、指宿のホテルで露天風呂に浸かっていると、一つ足りないものがあることに気がついた。
たしかに霧島山には霧島神宮があり、開聞岳には枚聞神社があって、人々から大切に遙拝されている。
が、桜島はどうだ?
あの危険な活火山は、いったい誰が祀っているんだ?
それで仲間が持参した『隼人の実像』(中村明蔵/2014)という本を開いてみたところ、「鹿児島神社(神宮)は、桜島の噴火を鎮める神だった」というキャプションを発見した。
なるほど、「鹿児島神宮」といえば南九州では唯一の式内大社で、格の高さからみても最強の霊力・呪力だろう。
納得したぼくらは、次の日のプランに鹿児島神宮からの桜島遙拝を加えたのだった。
南面する鹿児島神宮
ところが、行ってみてビックリした。
錦江湾の北側に鎮座する「鹿児島神宮」(霧島市隼人)の社殿は、南向きだったのだ。
つまり拝殿で頭を下げると、桜島に尻を向けてしまうというわけだ。
どういうこと???と混乱したぼくらだったが、『隼人の実像』には「遙拝」とは書いてなかったことを思い出した。
そこには「噴火を鎮める」と書いてあったのだ。
『火山列島の思想』のオオナモチ
鹿児島神宮からは3kmほど南東に鎮座する「大穴持神社」(霧島市国分)。
名著の誉れ高い『火山列島の思想』(益田勝実/1968年)で「最後のオオナモチの神の出現」として取り上げられた、あの神社だ。
『続日本紀』によれば、764年に国分近くで海底噴火が起こり、3つの島が出現したという。
さらに766年にも地震が続いて住民が流亡、そして「ここに至りて」778年に朝廷は「大穴持の神」を「官社となす」とある。
上の写真は、その時「神」が造ったと言われる3島のひとつ「辺田小島」の現在。実際には3島はもっと桜島近辺に所在していて、やがて海没したという。
大穴持神社の案内板にも、最初は「神造島」に遷座したが「島くずれ」のため現在の場所にうつされた、と書いてある。
3島は神社から見て桜島の方角にあったものの、現存はしないということなんだろう。
それでその大穴持神社がどこを向いているかというと、鹿児島神宮と同じく、桜島の方を向いているのだった。
これを「天子南面」の思想で捉えるのも正しいのだろうが、疑問も残る。
というのも、錦江湾に近い「式内社」には鹿児島神宮と大穴持神社の他に、福山町に鎮座する「宮浦宮」があるのだが、この神社は南ではなく西を向いているのだ。
「鹿児島湾を挟んで桜島に正対」しているというわけだ。
式内社というのは、927年の「延喜式神名帳」に記載された全国の官社のリストで、朝廷公認の由緒正しい神社をさす。
大隅5社、薩摩2社のうち錦江湾に近い3社がいずれも桜島を向いているのには、やはり昔の人の「意思」を感じざるを得ない。
ただし、それは火山を「崇める」意思ではなく、火山を「監視」し「封印」し「鎮火」しようとする意思だろう。
東を向く阿蘇神社
ただ、話はそう単純ではないのかも知れない。
九州最強の火山、阿蘇山を祀るとされる「阿蘇神社」は、なんと阿蘇山に対して横向きなのだ。
この点は、阿蘇神社の神職さんでも理由ははっきり分からないようだ。
阿蘇神社は都を鎮護するために東向きに社殿が建立されている。
阿蘇山上に火口を遙拝する奥宮「阿蘇山上神社」があることを考えれば、阿蘇中岳を背にして鎮座すべきであろう。
しかし実際は向かって社殿の左側に阿蘇山火口が位置しているので、少々不自然な感じがするかもしれない。
(『阿蘇神社』阿蘇惟之/2007年)
本では「都の鎮護」の他にも、社殿が卯の方向(東)を向いている点と祭事で卯の日を重んじている点とを関連づけた説明などをされているが、いずれも循環論法っぽくて、今ひとつ納得できにくい。
ただ、阿蘇神社は神武天皇のひ孫が創設したとされる古社中の古社なので、神社の持つ意味自体が、"ご神山の遙拝所"というものより古くて、異なっている可能性もある。
むろん、それが何なのかは見当も付かないが。
ちなみに武蔵国総社の大國魂神社(東京都府中市)は、1051年まで南向きだった社殿を、源頼義が北向きに改めたと公式サイトに書いてある。
理由は「朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治める」ためだったそうだ。