出雲神話⑤風土記のオオクニヌシはどこから来たのか
〜雲南市・神原神社〜
出雲国大原郡「神原の郷」のオオクニヌシ
島根県雲南市で「大国主神」を祀る「神原神社」(2022秋参詣)。
1972年に、旧社地にあった4世紀中ごろ築造の「出雲型方墳」から、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が出土したことで有名な神社だ。
「卑弥呼の鏡」ともいわれるその銅鏡を指すのかはどうかは不明だが、出雲国風土記には、「神原の郷」は大穴持(オオクニヌシ)が「御神宝」を積み置いた場所だという記事がある。
※以下の引用は『風土記(上)』角川ソフィア文庫より
神原の郷
古老が伝えて言うことには、天の下をお造りになった大神が御神宝を積み置かれた所である。
だから神財の郷というべきところを、今の人は誤って、神原の郷といっているだけである。
んで結論から言ってしまうと、出雲国風土記をみる限り、「天の下をお造りになった大神・大穴持命」が本拠地としたのは、神原神社を含む「大原郡」、いまの雲南市あたりだったように、ぼくは思っている。
(島根県公式サイト)
オオクニヌシの本拠地はどこか
では順を追って。
出雲国風土記では、大穴持(オオクニヌシ)に関する伝承は、出雲国の全域にわたって分布しているが、とりあえず「御子神」だけの話題については除外する。
これで本拠地の候補から「秋鹿郡」が抜ける。
つづいて、大穴持の死後の件である「大神の宮」「大神の社」の話題も除外する。
また、大穴持の「求婚」を、政略結婚による地域併合と考えて、求婚「された」側も除外する。
この時点で「出雲郡」と「神門郡」が消えてしまう。
それと、本拠地とは考えにくい「巡行」が行われたという地域も除く。これで「楯縫郡」と「仁多郡」が抜ける。
(神原神社古墳)
さらに、大穴持の具体的な行動が伴わない、単なる地名の由来の話題も除外すると、「島根郡」と「飯石郡」も抜ける。
残るのは「意宇郡」と「大原郡」だ。
意宇郡を「通り過ぎる」オオクニヌシ
それじゃ残った二郡のうち、まずは出雲国造家・発祥の地といわれる、「意宇郡」の記事を列挙してみる。
母理の郷。
天の下をお造りになった大神大穴持の命が、越の八口をご平定になり、お帰りになるときに、長江山においでになって、「わたしがお造りになって治めておられる国は、天つ神のご子係が、平安にみ世をお治め下さいと、お任せいたします。ただ、八雲立つ出雲の国だけは、わたしが鎮座する国として、青垣のような山をめぐらして、宝玉を置いて守ろう」とおっしゃった。
だから文理といった。
拝志の郷。
天の下をお造りになった大神の命が、越の八口を平定しようとして出て行かれた時、ここの林が勢いよく茂っていた。
その時、「わたしの御心をはやす(引き立てる)林だ」とおっしゃった。
だから、林といった。正倉がある。
宍道の郷。
天の下をお造りになった大神の命が、(狩りの時に)追いかけられた猪の像が、南の山に二つある。その形は、石となっているが、猪と犬にほかならない。今もなお、存している。
だから、宍道といった。
文中の「越の八口」をヤマタノオロチだとする説もあるそうだが、それはスサノオの神話だと思うので、その真偽はぼくには分からない。
ただ気になるのは、文中の大穴持のセリフが、いずれも移動の「道中」で語られた点だ。
意宇は通過地点・・・。
そういう印象が、ぼくにはある。
大原郡のオオクニヌシ
(加茂岩倉遺跡)
それでは最後に「大原郡」。
風土記のころの出雲国には9つの郡があったが、大原郡の風土記での登場はオーラスだ。
屋代の郷。
天の下をお造りになった大神が、的を置く盛り土を立てて射られた所である。
だから、矢代といった。正倉がある。
屋裏の郷。
古老が伝えて言うことには、天の下をお造りになった大神が、矢を射立てさせられた所である。
だから、矢内といった。
来次の郷。
天の下をお造りになった大神の命が、「八十神は、青垣山のうちには、絶対に住まわせないぞ」とおっしゃって、追い払われた時に、ここできすき(追いつき)なさった。
だから、来次といった。
城名樋山。
天の下をお造りになった大神、大穴持の命が、八十神を討とうとされて城を造られた。
だから、城名樋といった。
(荒神谷遺跡)
ま、ぼくの主張はシンプルなもんで、古事記で大穴牟遅神=オオクニヌシに焼けた岩を落として殺害した「八十神(やそがみ)」を迎え撃つために、大穴持が城を築いたり、矢の訓練をしたりしたのが大原郡で、さらには大穴持が「御神宝」を積んだ場所まで大原郡というんだから、いかにも守るべき本拠地っぽいよなー、というだけの話。
実際のところ、神原神社の北2キロには銅鐸の「加茂岩倉遺跡」(雲南市)があるし、その北西3キロには銅剣の「荒神谷遺跡」(出雲市斐川町)なんてのもあったりして、古代の大原郡の界隈は、ただの鄙びた山奥ではなかったようだ。
もちろん以上の話は、あくまで出雲国風土記からはそう読める、というだけのものだが、風土記を編纂したのは第25代出雲国造の「出雲広嶋」なんだから、733年当時の国造が「大穴持命」をどのように捉えていたか、のヒントにはなるような気がしている。
「天の下」と「国」
ここからは余談。
第82代出雲国造の千家尊統(たかむね)さんは、「天の下造らしし大神」の「天の下」は、「国」より高次で新しい観念だと、ご著書で説かれている。
この神がその名を帯びる「国」という言葉は、古くは穀物を生み出す耕地そのものであり、稲田を意味する言葉であることは、前に説いたとおりである。
「風土記」ではこの神を「天の下造らしし大神」とよぶ。
天の下という観念は、国という観念にくらべて一段と広く、そして高次の観念であり、それだけに天の下という観念は、国という観念が成立した後に発達した、新しい観念だといってよい。
だから古くはより原始的に、「国造らしし大神」とよばれたのであり、文字どおり大国主神であったのである。
(『出雲大社』1968年)
なるほど、そういえば天孫降臨したばかりのニニギが「国はあるか」と尋ねたのは、せいぜいが今の「村」ぐらいの集落を指していた感じだし、国造の時代になっても「国」は今の「市」や「郡」ぐらいのサイズだったと本居宣長が書いている。
「天の下」になって、ようやく出雲一国のサイズというところだろうか。