出雲神話⑨佐太神社のサルタヒコ
〜荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のオオクニヌシ 〜
押しつけられたサルタヒコ
松江市鹿島町で「佐太御子大神」を祀る「佐太(さだ)神社」(2019秋参詣)。
佐太神社の公式サイトには、佐太大神を「猿田彦大神と御同神」だと書いてあるが、それは例によって、明治維新政府の「押しつけ」だったようだ。
『日本の神々ー神社と聖地7 山陰』(1985年) によると、佐太神社は中世のころには熊野権現の影響から祭神を「佐太大神」からイザナギ・イザナミなどヤマト系の神々に変更していて、明治維新の時点でもイザナギ・イザナミ以下12神としていたという。
ところがそこに「神祇官」の指示を受けた松江藩から、正殿の祭神中の「秘説一座」を「サルタヒコ命」にせよという命令が下った。佐太神社としては猛反対したが、藩は受け入れず、最終的に「佐太御子大神」として顕示することで決着した。
ただそれで佐太神社は当局の心証を悪くしたか、出雲トップクラスの社格でありながら「県社」しか認められず、50年経った大正14年になって、ようやく悲願だった「国幣小社」に列することができたのだとか。
ぼくが「例によって」というのは、ぼくの住む神奈川県の一宮、「寒川神社」も定説はないものの「寒川神」が妥当だろうといわれてきたところ、明治政府から伊勢神宮・末社の「牟瀰(むみ)神社」の祭神が「寒川比古」と「寒川比女」なので、寒川神社も同じだろうといわれ、それを採用したという話を聞いていたから。
(『相模の古社』1971年)
明治政府の指示に従ったおかげか、寒川神社は明治4年には「国幣中社」に列しているが、いまの御守りやお札には寒川比古・比女ではなく、「寒川大明神」と書いてある。
(島根県公式サイト)
カミムスビと佐太大神
出雲国風土記によれば、佐太大神は「島根郡」の「加賀の潜戸」で生まれたとされるが、佐太御子社(佐太神社)はお隣の「秋鹿郡」に鎮座している。
この理由について、島根県古代文化センターの『解説・出雲国風土記』では、「本来広く及んでいた佐太大神の信仰圏を、ある時期に別々の郡に分割した結果」だと考察している。
島根郡と秋鹿郡は、島根半島の東半分にあたる地域だ。
加賀の潜戸(写真AC)
島根半島を信仰圏とする神というと、出雲国風土記にはカミムスビ(神魂命)が登場する。
で、同じエリアを信仰圏とするだけあって、佐太大神とカミムスビには血縁?関係があるのだという。佐太大神は、カミムスビの「孫」なんだそうだ。
加賀の神埼。ここに岩屋がある。高さ十丈ほど、周り五百二歩ほどである。東と西と北とに通じている。
いわゆる佐太大神がお産まれになった所である。
まさに産まれようとする時に、弓矢が見えなくなった。
その時、御母である神魂の命の御子の枳佐加比売(きさかひめ)の命が、祈順なさって、「わたしの御子が、麻須羅神の子でいらっしゃるならば、見えなくなった弓矢よ、出てこい」とお祈りされた。(以下略)
(『風土記・上』角川ソフィア文庫)
(出典『伊勢神宮と出雲大社』瀧音能之/2010年)
スサノオのいない出雲の四大神
ところで出雲国風土記が、「大神」と尊称をつけるのは「佐太大神」だけじゃない。
○秋鹿郡を除いて出雲全域に登場する「天の下をお造りになった大神(大穴持命)」
○意宇郡の「野城(のき)大神」
○意宇郡・島根郡に出てくる「熊野加武呂(かむろ)命=熊野大神」
の計4柱が、出雲国風土記の「四大神」だ。
そう聞いて、まず不思議に思うのが「スサノオ」がいないことだ。
おそらく、スサノオの娘に大穴持(オオクニヌシ)が求婚している点から考えて、スサノオは「四大神」より一段古い信仰だったんじゃないだろうか。
同じく大穴持に娘が求婚されたカミムスビの「孫」が佐太大神なんだから、元々は宍道湖の北側の島根半島がカミムスビ、南側の山間部がスサノオ、と南北に信仰圏を二分していたんだろう。
それが、やがて「四大神」に分割されていったのだとしたら、それは一体いつ頃のことなんだろうか。
出雲国風土記によると、大穴持に求婚されたスサノオの娘は「神門郡」に、カミムスビの娘は「神門郡」と「出雲郡」に住んでいたという。
それでこの「求婚」を、政略結婚による弱者の「併合」だという、よくある説明で考えたとき、この時点で大穴持を奉じる新興の部族には、それだけの「実力」が十分に備わっていたことになる。
埋められた青銅器
(出典『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』)
荒神谷銅剣群の大多数には、柄元に「×」が刻印されていた。
加茂岩倉銅鐸群でも、 一四個の銅鐸の鈕部分に「×」印があった(図45)。
これはどう見ても偶然ではない。
両遺跡の「×」印の刻み方を徹底的に分析した三宅博士さんは、その類似性のきわめて高いことに注目している。
この指摘を受けて松本岩雄さんは「加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の青銅祭器の一部が、埋納されるまでのある時期、同じ集団の管理下にあったとも考えうる」と、さらに踏み込んだ発言をしている。
(『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』田中義昭/2008年)
オオクニヌシ、出雲平野へ
個人の印象だが、出雲国風土記を読んだかぎりでは、大穴持命(オオクニヌシ)を信奉する集団の本拠地は、「大原郡」にあったようにぼくは思っている。
大原郡は、大穴持が「御神宝」を積み置いた場所であり、八十神と戦うための「城」を築いた場所でもあり、いかにも守るべき本拠地ってかんじがする。
その大原郡の「加茂岩倉遺跡」と、そこからわずか北に3キロの「荒神谷遺跡」に、多量の青銅器が集められ、埋納されたということだが、放射性炭素による年代測定ではBP2140±50、現地の案内板だと「弥生中期後半から後期初め」が、その時期だという。
ざっと西暦50〜100年ごろのことだ。
このあたりが、大穴持を奉じる新興集団が、いち早く内部の結束を固めて大原郡を出て、勢力拡張に移行していった時期なんじゃないか、とぼくは思う。
青銅器から墳丘墓へ
そしてその頃を境に、出雲の青銅器文化は衰退していって、代わって墳丘墓で行われる祭祀が中心になっていったという。
そして、ちょうどその頃から山陰を中心とするこの地方に墳丘墓が現れ、その後銅鐸祭祀が全面的に終焉する後期末にいたる間、この墳丘墓が徐々に各地にひろがっていく。
それは、各地の地域集団が共同で豊穣を祈る宗教儀礼が中国地方から姿を消し、一部の有力者が各種儀礼の前面に現れ、その権限の継承に関心が移る時代へと変貌していくことを意味する。
(『農耕社会の成立』石川日出志/2010年)
出雲地域の弥生墳丘墓を「四隅突出型墳丘墓」というが、それは意宇郡の安来や、因幡、伯耆、さらには海を越えて越(コシ)にまで拡がっていった。
そして3世紀前半には、出雲平野に「西谷9号墓」なる空前絶後のスケールを誇る完成型が誕生するが、それこそが古事記が「大国主神」と書く出雲のリーダーのお墓のように、ぼくには思えるのだった。
長くなったので、次回「その⑩出雲国造家の誕生」につづく