播磨国風土記の「漢人」と「韓人」
播磨国風土記の応神天皇
姫路城の中曲輪内に鎮座する、式内社の「射楯兵主神社」(2021夏参詣)。
「射楯(いたて)神」には水軍の神だという説もあるが、その根拠は「播磨国風土記」にある。風土記によると、神功皇后が三韓征伐で海を渡ったときに船の舳先にいた「伊太代(いたて)の神」が鎮座しているので、この地を「因達の里」と呼ぶようになったのだそうだ。
住吉三神より、もうちょっとピンポイントで神功皇后を守護した神なんだろうか。
「因達の里」以外にも「播磨国風土記」には神功皇后のエピソードがポツポツ見えるが、なんといっても多いのが応神天皇にまつわる説話だ。
「飾磨」「揖保」「神前」「託賀」「賀毛」の各郡あわせて、ザッと34本も記事がある。
それも「ナニナニ天皇の御世に」のように時代を表すための登場ではなく、応神天皇ご本人が狩りをしたり、手を洗ったりと実際に播磨を巡幸したという記事だけでだ。
「常陸国風土記」の「倭武(やまとたける)」も登場回数の多い天皇(?)だったが、それとは比較にならない応神天皇の播磨での人気だ。
(出典『風土記の世界』三浦佑之/2016年)
ただ、正史である「日本書紀」には、応神天皇が播磨に行幸したという記録はない。淡路島から吉備には回っているので、その前後に立ち寄ったという設定なんだろうか。
播磨国風土記で面白いのは、「郡」ごとに天皇が棲み分け(?)をしている点で、第15代応神天皇以前に播磨に行幸したと書かれる第12代景行天皇は「賀古」「印南」にのみ登場。
一方、応神天皇以後に巡幸したという第17代履中天皇は「美嚢」にのみ登場で、上記の応神天皇のエリアとは重なることはない(奥地過ぎるのか、宍禾郡に天皇の行幸はない)。
以前読んだときにも感じたことだが、やはり「播磨国風土記」は頭のいい人が編纂した、よく整理された風土記だと思う。
※明石郡、赤穂郡の本文は現存せず
播磨国風土記の時間軸
(播磨国一の宮「伊和神社」)
天皇の振り分けを空間的なヨコ軸の整理だとして、播磨国風土記では時間的なタテ軸もよく整理されている。
それは三段階に整理されていて、まずは大汝命(大国主)、少日子根命(スクナヒコナ)、火明命(ホアカリ)、阿遅須伎高日古根命(アジスキタカヒコネ)らが活躍した「神代」。
神話の登場人物なので、この神々が天皇と関わることはない。
つづいて「韓国」から渡って来たという「天日槍命(アメノヒボコ)」が、播磨土着の「伊和大神」や「葦原志許乎命(アシハラシコオ)」と土地争いを繰り広げたという時代。
日本書紀には新羅の王子、アメノヒボコが来日したのは第11代垂仁天皇の3年とあるので、長浜浩明さんの計算だと西暦242年頃のこと。
当然、伊和大神や葦原志許乎命もその頃の人物のはずだ。
(天日槍を祀る「出石神社」)
そして彼らの土地争いは、景行天皇(長浜さんの計算で在位290〜320年)の時代の内には片付いていたようだ。
296年からの九州親征が播磨の何者かに妨害されたという話はないし、熊襲を征伐した日本武尊が帰路に倒したという「荒ぶる神」は、播磨でなく吉備と難波に現れている。
そして景行天皇を継いだ第13代成務天皇(在位320〜350年)の時代には、播磨は完全にヤマトの勢力下に組み込まれていたようだ。
『先代旧事本紀』によると、播磨では成務天皇の時代に「針間国」と「針間鴨国」に国造が置かれているし、さらに応神天皇の時代には「明石国」にも国造が置かれている。
応神天皇が巡幸したのは、もはや安全地帯となった後の播磨なのだった。めでたしめでたし。
荒ぶる女神・御蔭大神
などと和んでいたら、なんと応神天皇の御世になってもまだ、恐ろしい荒ぶる神が残っていた。
播磨国風土記によれば、「枚方の里」の「神尾山」にいる「出雲の御蔭(みかげ)大神」は、通行人の半分を殺すという暴虐ぶりで、陳情を受けた朝廷は祈祷師を派遣したものの、どうやら効果はなかったようだ。
実は「御蔭大神」は女神さまで、先にこの地に来た男神が去ってしまっていたので、怨み怒って人間に八つ当たりをしていたのだった。
そこへ河内国の茨田(まむた)郡、枚方の里から「漢人(あやひと)」がやってきて、この神を敬い祭ったところ、神はようやく和やかに鎮まることができたのだという・・・。
播磨国風土記の特徴のひとつに、この「漢人」「韓人」といった渡来人の存在がある。
(養父市の風景)
播磨国風土記の「漢人」と「韓人」
とか言ってるぼくだが、「漢人(あやひと)」と「韓人(からひと)」が同じ集団を別の呼称で言ったものか、それともそもそも別の集団なのか、実はよく分かっていない。
日本書紀に初めて「漢人」が出てくるのは、神功皇后5年に新羅を攻めた「葛城襲津彦」が連れてきた「俘人(とりこ)」たちで、葛城の4つの邑の「漢人」たちの始祖になったという。
彼らは先端技術をもつ渡来系工人集団だったと、歴史学者の平林章仁さんが書いている。
一方「韓人」は、応神天皇7年に来朝した「高麗人・百済人・任那人・新羅人」が第一号で、「武内宿禰」は彼らを率いて「韓人池」を造らせたのだという。
土木工学に秀でた人たちだったのか、それとも単なる肉体労働者だったのかは不明だ。
ただ、あくまで個人の感想だが、播磨国風土記では「漢人」と「韓人」は、何となく描き分けられてる印象が、ぼくにはある。
(鬼ノ城 写真AC)
「韓人」が壊した石像
まず「漢人(あやひと)」についてだが、「御蔭大神」の他にも土着の「伊和大神の御子神」を敬い祭ったりして、播磨の土地に溶け込もうとする姿勢をうかがうことができる。
一方「韓人(からひと)」は、鎌の使い方を知らないとか、富み栄えて「韓室(からむろ)」を造ったとか、自分たちの生活習慣のままに「城」を築いたとか、何となくビミョーに「厄介者」「ヨソ者」扱いされている印象が、ぼくにはある。
その印象を決定づけたのが、次の「韓人」のエピソードだ。
これも応神天皇の御世のことだが、揖保郡の神嶋に、仏像に似た美しい「石像」があったのだという。そこに「新羅の貴人」がやってきて、石像の美しい表面を剥がし、輝く「瞳」を掘り取ってしまった。神は悲しみ、激怒して嵐を起こすと、新羅の貴人の船を海に沈めてしまったのだという。
新羅の貴人たちを埋葬した場所を「韓浜」といい、土地の人は石神の前を通るときは「韓人」の話はせず、瞳のことも喋らないのだそうだ。
4世紀の朝鮮半島
田中史生さんの『渡来人と帰化人』(2019年)によると、313年に楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も攻略した高句麗は、「郡の経営を担ってきた漢人や、華北の争乱を逃れた中国系の支配層・知識層を取り込み、彼らを積極的に登用した」のだという。
それは百済も同様で、「楽浪・帯方の遺民、華北の争乱を逃れた中国系の支配者や知識人を取り込んで、成長を加速させていた」という。
どうやら応神天皇の御世に朝鮮半島から渡来してきた人々には、中国系と朝鮮系がいたような感じだが、それがイコール「漢人」と「韓人」として認識されていたのかどうかは、結局のところ、よく分からないのだった(今後の宿題だ)。
《追記》播磨国風土記の「御蔭大神」
ぼくが播磨国風土記を読む限り、御蔭大神は「女神」だと思えるんだが、自信がないので念のため該当部分の現代語訳を貼っておきます。
(揖保郡)
意比川。
意比川。応神天皇の御世に出雲の御蔭大神が枚方の里の神尾山におられて、いつも道行く人を遮って、通行人の半分を殺し半分を生かして通した。
その時、伯者の人小保弖と因幡の布久漏と出雲の都伎也の二人がともに悩んで、朝廷に申し上げた。そこで、額田部連久等々を遣わして、祈祷させられた。(中略)
佐比岡。
佐比と名づけた理由は、出雲の大神が神尾山にいた。この神は出雲の国人がここを通り過ぎると、十人のうち五人を留め、五人のうち二人を留めて行き来の妨害をした。それで出雲の国人たちが佐比を作ってこの岡に祭ったが、それでも和やかに受け入れられることはなかった。
そうなった理由は、男神が先に来られて、女神が後に来られたからである。
この男神は鎮まることができなくて去って行かれた、そういうわけで、女神は恕み怒っておられるのだ(以下略)
(讃容郡)
筌戸。
大神が、出雲の国から来られた時、嶋村の岡を腰かけの床几として座っていらっしゃって、筌をこの川に置かれた。だから、筌戸と名づけた。
魚は入らないで鹿が入った。これを取って鱠に作り、お食べになる時に口に入らないで地に落ちた。
それで、ここを去って他の所にお遷りになった。
(引用は全て『風土記(上)』角川ソフィア文庫)
ただ、「讃容郡」の記述だと「筌戸」から出雲の大神は「去って行った」とあるが、「女神」は「佐比岡」に鎮まっているので、去ったのは「男神」になる?