天武天皇は天智天皇の「異父兄」か
〜大和岩雄『天武天皇出生の謎』〜
天武天皇は漢皇子?
写真は2024年末に参詣した、奈良の東大寺大仏殿。
堂内には、地べたに座り込んで奇声をあげたり、寝転んだりしている中国語の団体客がいて、日本の文化や歴史に興味もなければ敬意も払えない外国人が、なぜお金を出してまでこの場所に入場したのか、不思議になった。鹿に煎餅あげたら帰ればいいと思うんだが・・・。
東大寺を開基したのは、第45代「聖武天皇」。
父は天智・天武二帝の孫に当たる第42代「文武天皇」で、母は藤原不比等の娘の「藤原宮子(みやこ)」。
日本書紀は、文武天皇の祖父である天智と天武を、舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた「全兄弟」だと書くが、それは「首(おびと)皇子」を皇位につけたい人たちが”捏造”したことで、実際には天武は天智の「異父兄」だというのが、古代史研究家・大和(おおわ)岩雄さんの『天武天皇出生の謎』(1987年)。
日本書紀は大海人皇子(天武)を「大弟皇」とくりかえして強調し、「東宮」を大海人の固有名詞のように使うが、実際には「そうでなかったから」こその強調表現だと、大和さんはいわれる。
よく知られるように、天智と天武には年齢の問題がある。
日本書紀によれば、天智天皇は671年に数え年46歳で崩御したことになるが、不思議なことに「全弟」のはずの天武天皇の年齢にはまったく言及がない。
それでやむを得ず、皇統譜としては古株で、南北朝時代に成立した『本朝皇胤紹運録』を参照してみれば、天武天皇の崩年は65歳だとある。
すると天智が626年生まれ、天武が623年生まれと逆転し、天武のほうが「兄」になってしまう・・・というわけ。
それで大和さんは、天武は母の「宝皇女(=皇極/斉明)」が、舒明天皇と再婚する前に結婚していた「高向王」(用明天皇の孫)との間の子「漢皇子(あやのみこ)」だ———とおっしゃるわけだが、もちろん天智を日本書紀、天武を本朝皇胤紹運録、と別の資料から崩年だけを持ち出してくるのは一種のルール違反で、本朝皇胤紹運録だけに限っていえば、天智614生、天武623生で何の矛盾もない状態。
じゃあ天武天皇の年齢について、正統的な歴史学はどう理解しているかといえば、こんな感じ。
そこで、天武の年齢に関しては、例えば持統10年(696)に死去した長子高市皇子が43歳であったこと(『扶桑略記』)を参考にすると、彼は白雉5年(654)生まれとなり、この時に天武が20歳くらいとすれば、舒明6年(634)生、崩御時は52歳と推算されるので、この前後の年齢を一つの目安とするのがよいであろう。
これだと、天智―間人―天武の出生順を数年の年齢差でうまく説明することができる。天智の生年はやはり推古34年とするのが正しく、推古朝末年の降誕であった。
(『人物叢書 天智天皇』森公章/2016年)
なるほど天武本人が不明なら、その息子から逆算するのは有効な方法なんだろう。
だが、それでも一件落着にならないのは、天智天皇が「全弟」とされる天武天皇に、実の娘を4人も嫁がしているという事実の説明には、ならないから。
はじめに天武に嫁いだ「大田皇女」は、天智にとっては初めての子どもで、祖母の斉明天皇にとっては可愛い「初孫」だ。そんな愛娘を、13才(満11才か12才)になるやいなや、待っていたように「全弟」に嫁入りさせるという「異常性」。
その後も次々と3人の娘を「全弟」に嫁がせた「全兄」は、いったい大海人皇子の何を恐れていたのか。
大和さんは、この親子の異常性を「これは歴史学というより、一般常識の問題」だといい、天武は天智の「全弟」ではなく「異父兄」だと考えることで、ようやくその異常性は薄らぐのだといわれる。
高向王と当麻皇子
(葛城市の当麻寺 写真AC)
整理すれば、天武天皇の父は用明天皇の孫の高向王で、宝皇女(皇極/斉明)の最初の配偶者。
日本書紀は、二人の間に漢皇子(大海人皇子)が生まれたことだけ記すが、おそらく高向王は早逝してしまった。
その後、宝皇女は、敏達天皇の孫の「田村皇子」と再婚して「葛城皇子(中大兄皇子)」をもうけたところ、何と田村皇子は第34代「舒明天皇」として即位することになった———つまりは天武が兄で、天智が弟、というのが大和さんの説。
んじゃ漢皇子(天武)の父「高向王」の父親は誰かといえば、即位した天武天皇が684年に定めた「八色の姓(やくさのかばね)」で、最上位の「真人(まひと)」に用明天皇系から唯一選ばれている「当麻公」の祖で、用明天皇の皇子、「当麻(たいま)皇子」だろうと大和さんはいわれる。
(当麻寺 写真AC)
当麻皇子は用明天皇の第3皇子で、聖徳太子の「異母弟」にあたる。604年には新羅征討の将軍にも任命されている、一廉の人物だ。
当麻氏からは、天武天皇が崩御したあと「殯宮」の「誄人」に「当麻国見」と「当麻智徳」のふたりが選ばれて弔辞を読み上げていて、一氏族から二人が選出されたのは、壬申の乱で大功があった大豪族「大伴氏」と「紀氏」、それと当麻氏だけ。
また高向氏も天武朝になってから上級国民に引き上げられたとのことで、それらは明らかな「血縁人事」だと大和さんはいわれるわけ。
(斎宮跡復元建物 写真AC)
なお、天武天皇というと伊勢神宮で皇祖神の祭祀を始めた最初の天皇だとみる識者が多いが、用明天皇の皇女で伊勢の「斎宮」を37年間もつとめた「酢香手姫(すかてひめ)」は、当麻皇子の全妹だ。
天武の兄とされる天智は斎宮も送らず、神宮の神領を削ったほど伊勢には無関心だったので、この件も天武天皇の血縁に関わる話だと考えてもよさそうだ。
間人皇女は即位したか
(牽牛子塚古墳)
天智天皇が「全弟」のはずの天武天皇に、4人もの娘を嫁がせたのは歴史の「謎」だが、23年以上もの長い間「皇太子」のままでいたことも、同じく「謎」。
その理由については諸説あるが、大和さんは母の斉明天皇が、父の違う二人の息子のいずれを先に天皇にすべきかを決めかねたから、だとお考えだ。
だから斉明天皇は、弟の孝徳天皇に「簒奪」されていた皇位が戻ってきたときも、「長男」の大海人も「次男」の中大兄も指名できず、自らの重祚で先送りしたのだろうと。
だが、それにしても、その斉明天皇が崩御したあとも、なお中大兄は6年も「称制」のままで即位しなかったことは他の理由になるが、それは何か。
ぼくはニワカ古代史ファンなので全然知らなかったことだが、実はその6年間は、中大兄でも大海人でもない第3の人物が、天皇のような存在として宮廷祭祀を担っていた、という説が有力なんだそうだ。
その人物とは、舒明天皇と斉明天皇のあいだの皇女で、中大兄の「全妹」にして第36代孝徳天皇の皇后だった「間人皇女(はしひとのひめみこ)」。
万葉集では「中皇命(なかつすめらみこと)」、大安寺縁起では「仲天皇」、野中寺弥勒菩薩像では「中宮天皇」と記される間人皇女こそが、母の斉明天皇が指名した次期天皇で、この「全妹」が665年に薨去して斉明陵の「越智崗上陵(牽牛子塚古墳)」に合葬されてやっと、「ライバルに勝った」中大兄が天智天皇として即位できた———というのが話の流れのようだ。
間人皇女の立場は、「前皇后」という推古、皇極/斉明、持統と全く同じなわけで、実は即位していたとしても何の不思議もない。病床にある天智天皇に「後を託す」といわれた大海人が、天智の皇后「倭姫王」を次期天皇に推挙したという例もある。
斉明天皇が崩御した頃は、白村江への出兵、その戦後処理などバタバタしていたので、天皇のマツリのうち「祭事」を間人皇女が、「政事」を中大兄がと、分担して乗り切ったのだろう———というのが大和さんのお考えだ。
(天智天皇・山科陵 写真AC)
ただ、大和さんの論理でチト分からなかったのが、「ライバルの戦いに勝負がついて」中大兄が天皇になった・・・というくだり。
それでもう一度、森公章著『天智天皇』に戻ってみたところ、「前皇后である間人を表に立てて、斉明→間人→中大兄の権力構造維持が求められ」という一節で、頭の回転の鈍いぼくにも、ようやく理解できた。
つまり、母の斉明の段階では大海人も中大兄も同等のライバルだったが、間人皇女からすれば、中大兄は舒明天皇を共通の父とする「全兄」だが、大海人は用明天皇のひ孫というだけの「異父兄」に過ぎず、関係の深さや重さがまったく異なるわけ。
なので間人皇女が斉明天皇の後継者となった時点で、中大兄皇子の勝利が確定した、ということのようだ。
藤原不比等の捏造
(平城京大極殿 写真AC)
というかんじで、天武を天智の「異父兄」だとする大和説に立つと、この時代の「謎」がクリアになっていく感触があるわけだが、さて、それじゃなぜ日本書紀は二帝を「全兄弟」だと”捏造”したのか。
大和さんによれば、天智天皇の和風諡号「天命開別天皇」は本来、自らを漢の高祖に擬して王権簒奪を「天命思想」で合理化した、天武天皇にこそ相応しいものだったという。
天武天皇が伊勢神宮に皇祖神を求めたのも、それ以後の革命を排除するために「天命による天子」を「日の神の御子」にすり替えて、「万世一系の皇統思想に天命思想を包含する」ためだったんだそうだ(要はアマテラスの命令による天孫降臨のこと)。
(平城京朱雀門 写真AC)
しかし、「首(おびと)皇子」を即位させたい人たちからすれば、天武天皇を「天命開別」にしてしまうと、他の天武天皇の皇子たちの皇位継承にも有利に働いてしまうため、起点を天智天皇に入れ替えるしかない。
それが『続日本紀』におさめられた、元明天皇即位の宣命にのる「不改常典(ふかいじょうてん)」の創作だ。
口にいうのも恐れ多い藤原宮で天下を統治された持統天皇は、丁酉(文武元年八月)に、この天下を治めていく業を、草壁皇子の嫡子で、今まで天下を治めてこられた天皇(文武)にお授けになり、二人ならんでこの天下を治め、調和させてこられた。
これは口にいうのも恐れ多い近江の大津宮で、天下を統治された天智天皇が、天地と共に長く、日月と共に遠くまで、改わることのない常の典(不改常典)として、定められ実施された法を、お受けつぎになり、行なわれることであると皆がうかがい、かしこみ仕えきたと仰せられるお言葉を、皆承れと申しのべる。
(『続日本紀(上)』講談社学術文庫)
つまり、「天命開別」である天智天皇が定めた「嫡子・嫡孫法」に基づけば、文武天皇の子の「首皇子(聖武天皇)」だけに天皇になる資格があるのだ!!という理屈らしい。
ちなみに聖武天皇の和風諡号を「天璽国押開豊桜彦天皇」というが、もちろん意図的に「天命開別天皇」に似せられているのだとか。
こうして本当なら自分の諡号だった「天命開別」を奪われた天武天皇には、天智天皇の「大皇弟」やら「東宮」やらの称号が与えられ(矮小化され)、あまり出しゃばらない「全弟」として天智に仕えた、というポジションが設定されたのだという。
むろん仕掛け人は、わが孫を皇位に就かせたい藤原不比等で、日本書紀において天智天皇とともに「巨像化」した不比等の父「中臣鎌足」とのコンビは、「天皇家・藤原氏の共同執政=輔政体制」の規範として、周到に構想されたものだという。
学者の間では、日本書紀の「天智紀」は、特に混乱・矛盾・重複が多いことが常識になってるようだが、あれだけ後からアレもコレもと手を加えたら、混乱も矛盾も重複も、そりゃー増えても当然だろうとぼくは思う。
———ところで大和さんは特に言及してないが、ぼくが気になったのは、日本書紀の「編集長」は天武天皇の第6皇子「舎人親王」だったという点。
いくら実力者の藤原不比等のゴリ押しだとしても、実の父の系譜を偽るのには抵抗があったのでは・・・と思うのはフツーの感覚だろう。
でも考えてみれば、実は天武天皇は用明天皇のひ孫(三世孫)だったとすれば、天智の子(一世孫)の大友皇子を武力で倒すと、完全なる「下剋上」。
でも天武が天智の「全兄弟」なら、舒明天皇の一世孫ということで、大友皇子とは「同格」になる。
・・・と、そんな感じで不比等に説得されたのかなーと思ったが、もちろん個人の感想です。
———そういえば『逆説の日本史2』には、天武天皇の父は「新羅系の外国人(新羅人)」なので、持統天皇は「天武系の皇子を皇位から排除することによって天皇家の血統を守ろうとした」って書いてあるんだが、あの当時の男系は、天武ー草壁皇子ー文武ー聖武で、一体どの天武系が持統に排除されたんだろうか。
ちょっとよく分からなかった。