欽明天皇と蘇我稲目のクーデター(辛亥の変)はあったのか

蘇我稲目のクーデター?

石舞台古墳

写真は2023年春に見学した、奈良県明日香村の「石舞台古墳」。


積み上げられた巨石で知られるが、見るべきものは巨石の下の「玄室」で、奥行き7.7m、幅3.5m、高さ4.7mと12畳間よりやや長い空間には、かなり神秘的なものを感じた。


本当なら入口から11mも暗い「羨道(トンネル)」を歩かないと玄室には辿り着けないわけだが、今は羨道もむき出しで、明るい太陽光に照らされていた。

石舞台古墳

被葬者には「蘇我馬子」という説が一般的だが、専門家の中には馬子の父「蘇我稲目」を推す声もあるようだ。


日本書紀で「蘇我稲目」を検索してみれば、継体天皇の第二子「宣化天皇」が即位したときに、従来どおりに大伴金村と物部麁鹿火が「大連」に任命されると同時に、あわせて「大臣」に登用された——というのが、正史への初登場だったようだ。


だが世間には、蘇我稲目の歴史デビューはもっと早かったと考える人もいて、例えば作家の黒岩重吾氏は、蘇我稲目は継体天皇崩御のあと、物部と組んでクーデターを起こして安閑天皇を殺害、宣化天皇を軟禁したと主張されている。


クーデターの目的は、継体天皇を擁して権勢を増した、大伴金村の排除にあったのだとか。

私自身の考えでは、継体大王はやはり531年に亡くなり、そのときに目子媛が産んだ長子の勾大兄王子が殺された。この王子は、『日本書紀』に安閑天皇として載っております。

そして宣化となった檜隈高田王子は、軟禁的な形でずっと生き延びていた。軟禁といっても、人質といわれる百済の余豊璋王子が天智の時代にのびのびと暮していたのと同じような状態だったのではないか。王位にはつけなかったけれども、継体の王子として生きていたと思います。

これは、継体を担ぎ出し、新王権内部で強い権力を得た大伴金村を排するために、蘇我と物部が組んだクーデターでしょう。


(『継体大王と尾張の目子媛』1994年)

『謎の大王継体天皇』

こういった「クーデター説」の主な根拠は、継体・安閑・宣化・欽明と皇位が移った時代の記録に、「不審な点」が見られることだという。

歴史学者・水谷千秋氏の『謎の大王 継体天皇』(2001年)によれば、「不審な点」は4点。


①継体天皇の崩御年には、日本書紀に531年、534年の二説が載り、古事記には527年とバラバラな点。


②安閑天皇の即位年も、日本書紀に二説ある点。


③日本書紀が引用する「百済本記」に「日本では天皇及び太子・皇子がそろってなくなった」とあって、継体・安閑・宣化の不穏な死が暗示されている点。


④『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』に、欽明天皇の即位は継体崩御の翌年とあって、安閑・宣化がすっ飛ばされている点。


こうした点から昭和の頃は、継体崩御後、安閑の即位に同意しない「蘇我稲目」がクーデターを起こして欽明を即位させたが、大伴・物部に救出された安閑も同時に即位して、二つの王朝が7年に渡って対立した——という「二朝並立論」が林屋辰三郎氏によって唱えられ、一世を風靡したんだそうだ。


・・・いや、最近の本でも「二朝並立論」を「有力」だとする記述があるな。

周知のように、この時期には天国排開広庭王子(後の欽明)を支持する勢力と、勾大兄王子(記紀のいう安閑)や檜隈高田王子(記紀のいう宣化)を支持する勢力との間に政治的対立が存在したと推定する説が、今でも有力である(大橋信弥「継体・欽明朝の内乱」)。


(『蘇我氏ー古代豪族の興亡』倉本一宏/2015年)

というか、水谷千秋氏も(二朝並立論は否定されているが)クーデター説の論者のお一人か。

水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書)では、こうした事実から次のような推理をする。

継体の強引な生前譲位は、他の皇子、豪族たちの反発という皮肉な結果を招いた。

宣化は「純血のプリンス」欽明を担いで同母兄安閑にクーデターを起こし、安閑とその皇子を殺害。

そして諸豪族合議の結果、本命ながら若年である欽明即位までの中継ぎのような形で宣化の即位が決定されたのではないか、というのだ。


(『空白の日本古代史』2022年)

ただ、ぼく個人は、日本書紀には「おおむね」本当のことが書いてると思っているので、クーデター説には賛成できない。


賛成できない理由を挙げてみると、以下の3点。

①安閑・宣化は飛鳥で育った

飛鳥寺

以下、蘇我氏の飛鳥寺にて

歴史学者の門脇禎二さんは、継体天皇が尾張氏の目子媛(めのこひめ)との間に授かった、安閑天皇・宣化天皇の「諱」がそれぞれ「大兄皇子」「檜隈高田皇子」と、蘇我氏の勢力圏である飛鳥地方の地名を持つことから、両皇子は「ソガ氏の元で育った可能性が高い」といわれる。

(『古代を考える 飛鳥』1986年)


そしてまた、即位した安閑天皇の宮が「金橋宮」、宣化天皇の宮が「檜隈廬入野宮」であることから、蘇我稲目が「大王位の継承に関与」するようになり、その結果として、宣化朝での「大臣」就任があるともいわれる。

飛鳥寺

この点については水谷千秋氏も同様のことを書かれているが、ぼくが気になるのは、皇子時代の安閑・宣化が飛鳥に居住するようになった時期についてだ。


水谷氏はそれを「父と共に大和に入ったと見られる」といわれるが、それは西暦526年のことで、安閑天皇は61歳、宣化天皇60歳と、当時なら完全なる老人だろうという年代だ。


そんなお爺ちゃんが飛鳥にやって来て、そこの地名が「諱」になるなんてケースが、本当にあるものなんだろうか。


門脇さんは他の本で、両皇子の諱が飛鳥の地名なのは「そういう所で育った、またはそこ出身の乳母に育てられたとみられる」と書かれているわけで、60歳を超えたお爺ちゃんは今さら育ったり、育てられたりはしないと思うんだが。

飛鳥寺

それじゃーもっと早い時期で、継体天皇が即位した507年から、両皇子は飛鳥に住んだと考えたらどうだろう。


———いや、それでも安閑天皇はすでに42歳、宣化天皇41歳での引っ越しということで、乳母なんて必要のない堂々たる中年のオジさんだ。


結局、この問題を説明するには長浜浩明さんの計算が手っ取り早くて、「春秋年」で記載された継体天皇の崩御年齢を本来の41歳に戻してみれば、507年の継体即位のころの安閑・宣化はちょうど幼稚園児の年代になる。


その年齢から飛鳥に住んだなら、その地名が諱になったり、その地が宮になったりしても不思議ではないと、ぼくは思う。


【関連記事】継体天皇は皇位(政権)を簒奪したか  〜実年齢・系譜・本拠地〜

②葛城・平群・巨勢の実力

飛鳥大仏

継体天皇が、即位してから約20年間も皇居を大和の外に置いていたのは有名な話。


その事実から大和には、そもそも継体の即位からして反対していた勢力がいたんじゃないか、という発想がうまれ、その延長線上に「クーデター説」があるようだ。


その「反対勢力」を、水谷氏は「大和盆地の西側を拠点とする者たち」だったといい、具体的には「葛城氏」「平群(へぐり)氏」「巨勢(こせ)氏」など武内宿禰を先祖と称するグループだという。

『古代豪族と大王の謎』

だが日本書紀をみる限り、そのグループに果たして継体推進派の大伴・物部と互角に渡り合えるだけの実力があったとは、ぼくにはチト考えにくい印象がある。


まずリーダー格の「葛城臣」だが、457年に当主の「円大臣」を雄略天皇に焼き殺されたあとは歴史から名前が消えている。

一説によると、葛城臣が本拠地とした「南郷遺跡群」はこの頃を境に変貌し、ヤマトから直接の支配を受けるようになったという話もある。


欽明天皇の時代には「葛城直(あたい)」という、葛城襲津彦の血を引かない別系統の人たちが活躍しだしていて、「葛城臣」は母系としてひっそりと生き長らえてる印象がある。


「平群氏」は、仁賢天皇の時代に平群真鳥が「大臣」となって権勢を欲しいままにしていたが、ときの大連・大伴金村が皇太子だった武烈天皇と図って、これを誅殺している。

これでまた継体即位の邪魔でもしようものなら、大伴・物部に一族郎党、皆殺しにされかねない雰囲気だ。


「巨勢氏」については、当主の許勢男人が大伴金村・物部麁鹿火とともに継体天皇を探し出し、即位にまで導いた推進派の一人。

継体朝でも「大臣」に就任し、継体天皇への敵対心などあるはずもない気がする。


——というわけで、ぼくは5世紀末から6世紀初頭の奈良盆地西部に「葛城系勢力」なる豪族連合が存在した、という水谷千秋氏の説には、いまいち賛成できないのだった。

③継体・安閑・宣化・欽明の継続性

蘇我入鹿の首塚

歴史学者の遠藤慶太さんによると、「日本書紀の材料となった帝紀(大王の系譜)・旧辞(物語や歌謡)」は、欽明天皇の時代から編纂が始まったんだそうだ。


そのうち「帝紀」は先帝の「殯宮儀礼」において読み上げられたもので、「当然、諡号の献呈とは不可分」のもの。


じゃ、歴代天皇のうち「殯宮儀礼」で奉られた、初めての諡号はというと、これが安閑天皇(広国押武金日天皇)なのだという(もちろん宣化天皇にも贈られた)。


となると「クーデター説」に基づけば、欽明天皇は自分が殺した兄に諡号を贈り、帝紀にも載せたということになって、ちょっと意味が分からない。

『東アジアの日本書紀』

そういうわけで、「二朝並立論」や「クーデター説」の根拠となった、日本書紀の「不審な点」———すなわち継体と欽明の在位年が二説ずつ載る点についての、遠藤さんの見解はこうだ。

もし『日本書紀』が皇位は万世一系で断続なく受け継がれたとの考えで歴史を捏造したというなら、かかる矛盾が残されるはずはない

これらは『日本書紀』が利用した原資料ごとの矛盾であって、奈良時代に『日本書紀』をまとめたとき、編纂者が統一を行わなかった結果と解される。


(『ここまでわかった日本書紀と古代天皇の謎』2014年)

遠藤さんによれば、「内乱説」は"日本書紀を信頼しないこと"を出発点としていて、「資料的根拠において薄弱」ということだ。

ぼくも、日本書紀より聖徳太子の伝記や平安時代のお寺の記録の方が信用できるとは全く思えないので、遠藤さんの見解に賛成だ。


なお、日本書紀によれば、継体天皇の即位に際し、大伴金村は跪いて天子の「璽符」としての鏡と剣を奉って拝礼しているが、全く同じことは宣化天皇の即位でも行われている。


繰り返しになるが、自分が追い落とした兄について、欽明天皇がわざわざ群臣による服従の誓い(森浩一)を帝紀に書き残すなんて、これもちょっと意味が分からない。

《追記》『上宮聖徳法王帝説』の信憑性

その後、歴史学者・平林章仁さんの『蘇我氏と馬飼集団の謎』(2017)を読んだところ、クーデター説の根拠となる『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』の信憑性についての言及があったので、引用しておく。


なお先に言っておくと、いずれも成立したのは日本書紀よりずっと後の、平安時代になってからのようだ。

まず、『上宮聖徳法王帝説』の件の記事は、現『上宮聖徳法工帝説』では本文となっているが、もとの「上宮聖徳法王帝説』では裏書として書かれていたことから(沖森・佐藤・矢嶋2005)、信頼性がやや劣る。


次に、同じく欽明天皇の在位年数「卌一年」についても、それを抹消後に「王代云卅二年文」と傍書されており、関係者の間で疑問視されていたことがわかる。

法隆寺金堂釈迦三尊光背銘の引用について、「法興元卅一年」とすべきところを、「法興元世一年」と誤写しており、在位「卌一年」も誤写の可能性が大きく、欽明天皇元年を壬子(532)年とする立場も怪しくなる。


(中略)


そもそも、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』については、早くから成立や内容の信憑性に疑問が投げかけられ、元慶六(882)年までに付加された部分が少なくないと指摘されていた(水野1992)。

さらに、近年の厳密な分析の結果、「『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は9世紀後半の豊浦寺縁起をもとにして、興福寺が元興寺への支配を強める平安時代末に、元興寺の寺勢防衛、挽回のために偽作されたもの」、すなわち11世紀末以降、12世紀中頃以前に成立した偽文書であると推断されている(吉田一彦2012)。


これらによれば、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の信憑性は著しく低いことになる。


(『蘇我氏と馬飼集団の謎』2017年)

平林さんは、日本書紀は「王位継承に関する王族間の抗争」は「隠蔽するどころか、あからさまに記そうとする」態度をとっていて、「辛亥の変」だけが隠されたとするのは不自然だ、とおっしゃっている。


それは、すでに神武天皇の後継問題から始まっている皇室の伝統のようなもので、近いところでは第20代安康天皇、第21代雄略天皇が皇位を争うライバルを殺害している。


蘇我氏の出自〜秦氏ユダヤ人説と養蚕・韓式土器〜につづく