武蔵と近江の製鉄神、渡来神
一之宮貫前神社の鉄の神
群馬県富岡市に鎮座する「一之宮貫前(ぬきさき)神社」の大鳥居から臨む、秩父山地。 こちらは上野国の一の宮で、主祭神に「経津主神(フツヌシ)」と「姫大神」を祀る(2022初夏参詣)。
埼玉西部から群馬にかけては「渡来人」が関わったとされる神社が結構あるんだが、ここ貫前神社で「姫大神」を祀ったのは、6世紀頃に当地に土着した渡来人だろうと『白鳥伝説』(谷川健一)には書いてある。
そこに後から、上毛野君の一族で「物部」を統率した「磯部氏」がやってきて「抜鉾(ぬきほこ)神」を祀ったことで、二神二社の体制になったんだそうだ(現在は二神一社)。
磯部氏が統率した「物部」は金属精錬にたずさわった「鍛冶師(かぬち)」だとのことで、同業の渡来人との協業が成立していたのかも知れない。
武蔵国の金属神、渡来神
埼玉県児玉郡の名神大社、「金鑽(かなさな)神社」。
『日本の神々・関東』によると、カナサナは金砂(かなすな)を意味していて、祭神が金属の神「金山彦」だった時代もあるそうだ。
近隣には朝鮮半島の葬法とされる、「積石塚」なる墳墓がたくさん残されていて、砂鉄鉱の採掘に従事した、渡来人の集落があったかという話だ。
現在でも「金屋」とか「阿那志(穴師)」といった、それっぽい名前の部落があるんだそうだ。
埼玉県秩父市の「聖(ひじり)神社」。
708年に当地の沢から自然銅が見つかって、わが国初の流通貨幣「和同開珎」が鋳造されたとき、慶事を記念して沢の上流で「金山彦」を祀ったのが、創建の縁起だという。
和銅の発見者の一人には「金上旡」という名があり、新羅系の渡来人だそうだ。
埼玉県日高市の「高麗(こま)神社」。
主祭神の「高麗王若光(じゃっこう)」は、668年に滅亡した高句麗の王族で、716年に武蔵国に高麗郡が設置されたとき、東国に散らばっていた1799人の亡命高句麗人を集めて当地に移住してくると、「大領(郡長)」に任ぜられたと、社伝にある。
若光の一族は、新、新井、金子、和田などの支族に分かれて広がり、宗家は現在も高麗神社の宮司を務めてるそうだ。
高麗神社の参道と、JR高麗駅前に立っていたモルゲッソヨ、じゃなくて「将軍標」。
「鬼神」除けの像らしいが、あまりに前近代的だとして「日帝」が排除するまでは、朝鮮の村々の入口に、不気味に乱立していたものだという。
実際にはもっと「陰茎(ちんちん)」の形に近いもので、併合前の朝鮮では、迷信とか呪術とかの類いが生活の一部だったことが伝わってくる、異様な世界だ。
おそらくこんなものが「北方系シャーマニズム」の名残なんだろう。
近江国の金属神、渡来神
南近江をウロウロしていると、どこからでも目に入ってくる「三上山」。なぜか『未知との遭遇』が見たくなったりして、不思議な山だった。
さて南近江でも、鉄や金属の神さまを参詣してきた。まずは三上山のふもとに鎮座する名神大社、野洲市の「御上(みかみ)神社」へ。
御上神社では、アマテラスの三男「天津彦根命(アマツヒコネ)」の子、「天之御影命(あめのみかげ)」を祀る。
天之御影命は、日本書紀に登場する「天目一箇神(あめのまひとつ)」と同一神だといわれ、鍛冶や製鉄の神として信仰を受けている。
同じく「天目一箇神」を祀る、近江八幡市の式内社「菅田神社」。
天目一箇神はその名の通り、一つ目の神だとされるが、民俗学者の石塚尊俊さんによれば、タタラ炉の炎を見つめすぎて失明した「片目のタタラ師」が神格化したものなんだそうだ。
甲賀市の式内社「水口神社」では、「大水口宿禰」を祀る。
古代史ファンでないと聞かない名だが、崇神・垂仁の二帝に仕えたシャーマンで、「大神神社」「大和(おおやまと)神社」の創建に関わったという人物。
「穗積氏」の祖で、ニギハヤヒから続く、物部氏だ。
物部氏というと朝廷の武器・兵器を管理した軍事氏族で、民俗学者の谷川健一さんは「穗積という地名は青銅器の製作や祭祀に関連がある」と『青銅の神の足跡』(1979年) に書かれている。
水口神社とは、野洲川(天の安川?)を挟んで鎮座する、名神大社の「川田神社」。
こちらの祭神は、鳥取連の祖「天湯河板挙(あめのゆかわたな)」。垂仁天皇の「唖(おし)」の皇子「ホムツワケ」のために、白鳥を捕らえてきたという人だ。
この不思議なエピソードを民俗学で解釈すると、火中出生のホムツワケは「火持別」「火貴別」で炎から生まれた金属を表し、「唖」であるのは「鉱毒」が原因で、「白鳥」は製鉄民の神、「湯」とはタタラ炉から流れ出す溶けた金属のことをいい、要はすべてが「鉄」に結びつくのだそうだ。
(『青銅の神の足跡』)
野洲市の名神大社で「兵主(ひょうず)大社 」。
一般にオオクニヌシの別名といわれる「八千矛神」を祀るが、勧請元の奈良県「穴師坐兵主神社」のご神体は「日矛」だという。つまりは金属製の武器だ。
また「兵主神」とは、古代中国の武器や金属の神「蚩尤(しゆう)」が原型であろうと、谷川健一『白鳥伝説』(1986年)には書いてある。
「日矛」が出たところで、蒲生郡竜王町鏡1289で「天日槍(アメノヒボコ)」を祀る 「鏡(かがみ)神社」。
天日槍は、垂仁天皇3年(長浜浩明さんの計算で242年ごろ)に来日した新羅の王子で、天皇から播磨と淡路での居住を許されたものの、諸国を見て回りたいと近江の「吾名邑」にしばらく住んだと、日本書紀は書く。
その後、天日槍は若狭を経て但馬に定住したが、日本書紀には「近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は天日槍に従っていた者」と書かれているので、当地に残された従者たちが天日槍を祀ったのが、鏡神社の創始のようだ。