大山誠一「聖徳太子虚構説(非実在論)」
〜十七条憲法を書いたのは誰か〜
太子道と上宮王家
上の写真は『週刊朝日百科 日本の国宝001 奈良/法隆寺1』(1999年)からお借りした「太子道」で、聖徳太子が拠点とした斑鳩と首都・飛鳥までを、最短距離で結ぶ斜行道路だといわれるもの。
太子専用?のハイウェイか。
写真のキャプションによれば「写真手前から中央の溜池の右脇を通り、上方(北西)に向けてまっすぐ伸びている」のがそれで、太子の時代は斑鳩町高安ないし法起寺から橿原市新ノ口までの十数キロ(吉村武彦)、現在でも田原本町から安堵町までの痕跡が、飛行機からも確認できるという(吉川真司)。
(斑鳩 写真AC)
こちらの空撮は現在の斑鳩町(中央に法隆寺)。
斑鳩の地は、河内から大和に向かう「竜田道」をおさえ、河内から大和に流れる「大和川」もおさえた水陸交通の要衝で、難波に上陸して飛鳥に向かった隋の使者「裴世清」も、船上から旧法隆寺(斑鳩寺)の堂塔を眺めたのではないか、という話もある(東野治之)。
斑鳩を拠点とした聖徳太子のファミリーを「上宮(じょうぐう)王家」というそうだが、奈良時代の法隆寺の財産目録には、東は上野から西は備後、伊予にまで、水田・畠・山林・池など数多くの所有不動産が確認できるのだとか。
その上宮王家の経済力だが、当時のもう一つの有力王家で、天智・天武の祖父・押坂彦人大兄皇子を祖とする「押坂王家」(桜井市)の場合だと、「刑部(おさかべ)」という巨大な部民集団が奉仕していて「その戸数は1万5千戸を優に超え、倭国の支配人口の一割近くを占めたという推計もなされている」とのことなので、「上宮乳部(みぶ)」なる部民を擁する上宮王家だって、相当な実力を誇っていたんだろう。
(『飛鳥の都』吉川真司/2011年)
大山誠一の聖徳太子虚構説(非実在論)
だがそんな上宮王家の総帥・聖徳太子について、斑鳩宮と斑鳩寺を造営しただけの「厩戸王」という王族はいたが、数々の業績を上げた偉人としての「聖徳太子」は、藤原不比等らが『日本書紀』のなかで創作した虚構だ―――というのが歴史学者の大山誠一氏。
ぼくが読んだのは、聖徳太子「非実在論」としては二冊目になる『聖徳太子と日本人』(2001年)で、大山氏によれば、太子の偉業とされる「十七条憲法」は日本書紀編纂の中心人物である僧「道慈」が書いたものであり、太子が著したとされる経典の注釈書「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」は中国製の輸入品で、法隆寺「釈迦三尊像」の光背銘文は太子の没後100年以上の後世に刻まれたもの―――なのだという。
(釈迦三尊像 出典『日本の国宝001 奈良/法隆寺1』)
大山氏の説明を聞くと、うーむ、なるほどぉ・・・と思うところもあるが、でもよく考えてみると、じゃあ他に聖徳太子の時代で「実在」が確実な人って誰かいるのかというと、当時最強の蘇我馬子だって怪しいような気がしてくる。
『隋書』は、当時の倭国王の名として「多利思北孤(たりしひこ)」と書くが、それが誰のことを差しているのかさえ不明なわけで、大山氏は太子が実在した証拠を一つでも示せばいいとおっしゃるが、どう考えても「非実在」の方が話は容易な印象がある。
・・・などとニワカの一般人がホザいてても時間の無駄なので、ここからは大山説に対するプロからの反論をご紹介したい。
釈迦三尊像の光背銘文
(光背銘文 出典『日本の国宝001 奈良/法隆寺1』)
まずは法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像の「光背」裏面に刻まれた銘文の件。
そこには「法興元31年(621年)」に太子の母がなくなり、翌年1月には太子も病に伏せたので、王后・王子・諸臣が平癒を祈って釈迦三尊像の建立を誓願したが、実現する前に太子と妃が没してしまい、その後で追善のための像として完成した―――というようなことが刻まれているわけだが、大山氏はいくつかの点から、推古朝での成立を否定している。
◯「法興」などという年号は存在しないから、後代に書かれたもの
◯太子の呼称「法皇」も天皇号が成立した天武朝以降のもの
◯銘文中の「知識」の初見史料は686年、「仏師」は734年なので、それ以降に書かれたもの
◯旧法隆寺(斑鳩寺)は670年に全焼しているが、釈迦像と光背だけで422kgもの重量物をどうやって運び出したのか
んで反論だが、まず釈迦三尊像自体が推古朝に作られたことは「定説」だとして、問題は「光背」の銘文がいつ刻まれたのか。
実際に釈迦三尊像を調査した、歴史学者の東野治之さんによれば、釈迦像と光背には「別物を取り合わせたような不自然さは少しも感じられません」とのことで、両者は同時進行で制作されたのだという。
現に光背と仏像の取り付け方を調べた彫刻史の研究者は、双方の取り付け部の様子から、できあがった光背と仏像を、工人が現場で調整しながら組み上げていったと判断しています(西川杏太郎『日本彫刻史論叢』中央公論美術出版、2000年)。
(『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』東野治之/2017年)
また、光背の裏側には(上の方の写真のとおり)全14行、各行14文字が正方形に刻まれているが、正方形を中心に平らに整えられた範囲にも金メッキが散布されているのだという。
これはつまり「銘を刻むことが光背を作る前から予定されていた」ことを示す証拠であり、後の時代に銘だけ「追刻」されたものではないことが分かるのだという。
(光背銘文 出典『日本の国宝001 奈良/法隆寺1』)
「法興」という年号については、ぼくなどはまだ元号のない時代だったからこそ、太子の周りの人たちが「私年号」を使った(使わざるを得なかった)と思うわけで、東野さんは我が国の「法興」より先に新羅が(中国のものではない)独自の年号を使ったことを挙げ、推古天皇や蘇我馬子らが「仏教興隆の時代が到来したことを記念」して使ったのが、法興年号だろうと書かれている。
(斑鳩の法輪寺 写真AC)
また東野さんは、太子には複数の妃がいたのに、銘文に刻まれた妃が「膳大娘女(かしわでのおおいらつめ)」だけである点から、釈迦三尊像がもともと安置されていたのは、斑鳩を拠点としていた豪族「膳(かしわで)氏」が建てた「法輪寺」だったと見るのが妥当だろう、と書かれている。
元々は膳氏の私物だったものが、全焼ののち再建された(現在の)法隆寺に提供された、ということだろう。
ちなみに太子の他の妃「橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)」が太子の死を悼んで作らせたという工芸品「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」には当然、橘さん以外の妃は登場しないw。
なお「知識」「仏師」「法皇」などの初見の問題については、歴史上の全ての文書が現存するわけでもないし、光背銘文が「追刻」されたものではないのなら、それこそが「初見史料」の可能性だっであるのでは?とぼくなどは思ってしまうな(一般人の感想)。
日本書紀と憲法十七条
次に、大山氏が中国留学から帰国した僧「道慈(どうじ)」が全面的に関与したという『日本書紀』と、その中に収められた「十七条憲法」の件。
大山氏によれば「聖徳太子関係の記事のすべてに、道慈が関わった痕跡がある」そうで、道慈は718年12月に帰国してから僅か1年半で、あの日本書紀を完成させたのだという(まるで聖徳太子のような超人だ!)。
道慈については仏教学者の石井公成さんが面白い話を書かれていて、まず道慈の宗教的立場(三論宗)は「十七条憲法」の精神とはまるで相容れないものであること、『懐風藻』にきわめて頑固な人間性が記録される道慈が「変格漢文」で間違いだらけの「十七条憲法」を書けるはずがないことなど、仏教のプロならではの視点には、うなずかされるばかりだ。
それほど日本書紀の太子関連は「倭習」といわれる奇用・誤用に満ちていて、16年も唐に留学したエリート僧・道慈の筆によることはありえない、と「区分論」で日本書紀研究に革命を起こした森博達『日本書紀の謎を解く』(1999)にも書かれているそうだ。
んでさらに石井さんは、日本書紀の太子関連は「場所によって太子の呼び方が様々であるうえ、用語も文体も場所によってそれぞれ異なって」と、道慈一人による執筆に疑問を投げかけ、そのうえで「十七条憲法」が思想的には極めて「中途半端」なものである点を指摘される。
つまり、憲法は、法家の主張を取り込んでいる部分もあるものの法家ほど酷薄でなく、儒教に基づいて礼を重んじているものの、天にそむく悪者たちの皆殺しを説くほど激しくないのであって、「天皇」の語も見えず、天皇家を権威づける皇天信仰も強調されていないのです。
古い成立としか考えられません。
また、後代の僧侶の作文にしては、法家の文を引くなど、政治的であって生々しすぎます。
(『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成/2016年)
ここらへんの問題は東野さんも、「十七条憲法」では律令制なら最重要視されるはずの「詔勅」が第三条で、「仏法僧」の第二条より下位に置かれているのは、推古朝(法興の世)ならではの思想だと指摘されているし、日本書紀に太子の事績として記される「大楯と靭を作らせ、旗幟に画を描かせる(推古11年11月条)」や「王臣に命じ、褶を着用させる(同12年閏7月条)」なんて「些細な記事」こそが「正真正銘、事実に基づく」太子による具体的な施策だと書かれている。
・・・とは言っても、だからといって「十七条憲法」が太子作である根拠にはならないわけだが、一方で、大山氏が主張する道慈による作文説も成り立たなくなったわけで、この勝負は痛み分けというか、話が振り出しに戻っただけというか…。
「三経義疏」は中国製の輸入品か
(出典『古代史再検証 聖徳太子とは何か』2016年)
最後に、聖徳太子が著したとされる経典の注釈書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』は、大山氏によれば中国は「敦煌」から出土した注釈書と「7割同文」の同系統で、6世紀後半の成立であることから「中国製」の「輸入品」であることが「ほぼ確定」しているのだという。
だが、仏教学者の石井公成さんによれば、太子の『三経義疏』は「冒頭から変格漢文」「平安時代の物語のようにうねうねと続く長文」が目立っていて、「漢文らしい簡潔な文体で書かれた敦煌写本とは全く異なって」いるのだという。
要は「十七条憲法」と同じくヘッポコ漢文ということらしい。
率直に言ってしまうと、三経義疏は、7世紀初めの長安や洛陽の一流の学僧の注釈と比較すれば、時代遅れの古い注釈を種本とし、思考力は非常にすぐれているものの仏教の素養が十分でない人が書いた、素人くさい表現が目立つ、変格漢文の注釈ということになります。
特に、『法華義疏』と『勝髪経義疏』はそう言えます。
ただ、自問自答を粘り強く展開している部分が見られ、時に独自のすぐれた解釈が含まれていますので、7世紀前半の日本で書かれたとすると、画期的な文献と言えましょう。
(中略)
ここまで三経義疏にはいかに和風な変格漢文が多いかを指摘してきましたが、このことは、言い換えると、その講経が日本語でなされたこと、つまり、経典に対する検討が日本語でなされ、日本語で考えられたことを意味します。
(『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成/2016年)
一方、歴史学者の東野さんが注目したのは、三経義疏のうち『法華義疏』写本の「罫」が「ヘラ」で入れられているという事実。
もしも『法華義疏』が、敦煌写本を書いた「職業写字生」つまりプロの写本職人なら「細い黒の線」を使うので、ヘラを使った『法華義疏』はいかにも素人の作。
ヘラを使うのは「知識人の書いたものや書状など私的なもの」の場合が多いそうで、要は「自筆」の可能性が高いってことなんだろう。
また三経義疏のうち『勝鬘経義疏』については、内容がそっくりな注釈が敦煌文献に見つかってるそうだが、よーく比較してみると同じ趣旨の文なのに「語」が「文」に変えられている箇所があったりして、作者が中国語ネイティブではない可能性が考えられるのだという。
・・・というわけで、三経義疏についても、大山氏がバッサリ斬ったような「中国製の輸入品」が正解かどうかは、簡単には言い切れない———というのが現状であるような印象がある。
以上、一般人のぼくがALL受け売りで紹介できることには限度もあるので、この件に興味のある方は東野さんと石井さんの本を買って熟読してみてください(新品販売中)。
ところでぼく自身の大山説への感想はというと、以前、2011年に出た『歴史読本』を読んでいたら、足立倫行という作家さんが大山説を持ち上げて「現段階ではもはや、”聖徳太子”が実在しなかったことは自明、なのかもしれない」と書いていて、世間の受け止め方はそんなもんかと思ったりもしたが、ぼくは大山説には賛成しない。
というのも、ぼくが古代史で特に興味を持ってるテーマのひとつが「古事記の成立」についてなんだが、その件に対する大山氏の説明が(聖徳太子同様)一見バッサリ一刀両断で分かりやすいように見えて、実はけっこう大事な要素がこぼれ落ちて無視されてるような、そんな印象があったから。
他の人がLEGOで作った飛行機をバラして新幹線に作り直したぜ、というから見に行ったら、使われなかった大量のパーツが床下に散らばっていた感じ?(違うかw)。
《追記》十七条憲法と勝鬘経義疏
後日、産経新聞取材班『聖徳太子「和のこころ」の真実』(2022年)を読んだところ、石井公成・駒澤大学名誉教授の研究が更に進んでいることを知ることができたので、以下に引用。
では十七条憲法はどうやって作られ、お手本があったのか。
従来の研究で「和を以て貴しとなし」は儒教経典の「礼記」や「論語」に先例があるとするなど部分的な指摘がされてきた。
一方、石井公成・駒沢大名誉教授は、5世紀に漢訳された経典「優婆塞戒経(うばそくかいきょう)」が基調とみる新説を打ち出した。
第二条「三宝に帰依しなければどうして曲がったことをただすことができようか」などと似た言葉が同経にあることに着目。
さらに、太子が書いたとされる「勝鬘経義疏」(経典の注釈書)にも同経からの引用部分を見つけ、「十七条憲法と勝鬘経義疏は共通点があり、同一人物、すなわち太子が書いたことは間違いない」と指摘。
(以下略)