中村修也『女帝推古と聖徳太子』
〜なぜ聖徳太子は即位しなかったのか〜
推古天皇はアマテラスか
上の写真は、2024年12月に見学した奈良県橿原市の「植山古墳」で、推古天皇と竹田皇子がはじめに合葬された40x27mの「長方墳」だ。
お二人はその後、敏達天皇陵や用明天皇陵、聖徳太子陵のある大阪府太子町の「山田高塚古墳」(59x55m)に改葬されたという。
そういえば『逆説の日本史2』には、合葬は「異常死した高貴な人物の埋葬における原則」と書いてあったが、在位36年の推古天皇のほかにも、その父・欽明天皇(在位32年)、その夫・敏達天皇(在位14年)も合葬墓に眠ってるな。
(日食 写真AC)
推古天皇の崩御は、推古36年(628年)3月7日のことだが、その直前の2月27日のこととして、日本書紀に初めて記録された天体現象が「日食」だ。
この件は、記紀神話のアマテラスが「天岩戸(天石窟)」に隠れてしまい、世界が暗黒に包まれたという「天の岩戸隠れ」を思い起こさせるが、推古20年に蘇我馬子が推古女帝を称えた歌にも「推古=アマテラス」っぽいものがあるというのが、日本史学者・中村修也さんの『女帝推古と聖徳太子』(2004年)だ。
馬子の歌は、女王に対する尊敬と忠誠を詠った歌です。
「我が大君の 隠ります 天の八十蔭」という表現は、まるで額田部(※推古)を、天の岩戸隠れを行った天照大神に擬しているかのような表現です。
その女神にも似た女王額田部に、千代にも万代にも「仕へ奉らむ」と永遠の忠誠を誓っているのです。
推古天皇の崩御は、日本書紀が完成する100年ほど前のこと。
在位36年の大女帝が亡くなる直前の日食は、強烈なインパクトをもって人々に記憶されたことだろう。
ところで上掲の中村修也さんによれば、「なぜ厩戸は即位できなかったか」のではなく「なぜ厩戸は即位しようとしなかったのか」こそが、問題なのだという。
時の大権力者、蘇我馬子にとっては、自分が義理の父になれる厩戸の即位は都合がいい。息子の蘇我蝦夷にとっても、義理の兄弟である厩戸は何かとやりやすいだろう。
すでに穴穂部皇子、崇峻天皇と皇族を殺してきた馬子の実力があれば、竹田皇子を失った後の推古天皇に、厩戸への「譲位」を求めることだって可能だったのでは?———とは、ぼくでも思うところだ。
なので太子、じゃなくて厩戸は、自発的・自主的に「即位しなかった」というのが、中村さんの説だ。
穴穂部皇子を殺したのは推古天皇
それでは順を追って、中村説を紹介したい。
こちらの写真は、馬子に殺された穴穂部皇子と宅部皇子の合葬墓といわれる斑鳩町の「藤ノ木古墳」。
直径48mの「円墳」ということで、天皇陵とは考えにくい割りには馬具等の副葬品が豪華で、同じ日に殺害されたという上の二皇子が被葬者に考えられているようだ。
日本書紀は、穴穂部皇子を殺した首謀者を馬子だというが、馬子には妹の子(甥)を積極的に抹殺したい理由はなく、一方、穴穂部皇子には兄の用明天皇のあとの自然な即位のチャンスが十分に残されていた。
なので皇位を欲した穴穂部皇子が、焦りのあまりに(馬子の政敵)物部守屋と組んだから殺された、というのは何だか話として疑わしい(群臣会議さえ開かれていない)。
そこで中村さんの結論は、夫の敏達天皇の殯宮(もがりのみや)で穴穂部皇子に強姦されかけた額田部王(推古)の命令で、馬子がその復讐のお手伝いをさせられたのが真相ではないか———というもの。
確かにいくら政敵と組んだからといって、馬子の一存で皇位継承権をもつ皇族を殺したら大問題になるか。
崇峻天皇は暗殺されていない
こちらの写真は、桜井市倉橋の「赤坂天王山古墳」で、長辺50mの大型方墳だ。
巨石を使った立派な石室を持ち、その規模から見ても当地に「倉梯柴垣宮」を営んだ崇峻天皇が、生前から準備した「寿陵」だろうと見る考古学者は多いらしい(森浩一氏など)。
さて中村さんによれば、用明天皇崩御/穴穂部皇子殺害のあとの皇位をめぐっては、額田部王(推古)と馬子の間でドロドロした交渉が繰りひろげられていたようだ。
我が子・竹田皇子を皇位につけたい額田部王(推古)は、是が非でもと馬子に懇願するが、穴穂部皇子殺害に関与した額田部王の子が即位では、豪族連合がいい顔をせず、母子が孤立する可能性がある。
一方、馬子には自分の命令で殺してしまった妹(小姉君)の子・穴穂部皇子の代わりに、その全弟である「泊瀬部王(崇峻)」を即位させて、妹を慰めてやりたい。
むろん、将来的に皇位につけたい厩戸皇子の前は、竹田皇子より泊瀬部王の方が操りやすいという計算もある。
んで、この駆け引きに勝利したのは、穴穂部皇子の殺害という「貸し」のある、馬子の方だった。
用明天皇につづく「蘇我系天皇(母が蘇我氏)」として即位した崇峻天皇に、馬子は娘の「河上娘(かわかみのいらつめ)」を娶せている。
(崇峻天皇の倉梯柴垣宮伝承地/桜井市)
ところが!
日本書紀は、そんな実の妹が産んで、実の娘を嫁がせた崇峻天皇を、馬子が暗殺させたのだという。
しかもその理由というのが、崇峻天皇が献上された山イノシシの首を指さして「いつかこの首のように嫌な奴を切り捨てたいもんだ」と”ボヤいた”という噂を聞いた馬子が、やられる前にやっちまえとばかりに殺してしまったというもの。
ここで中村さんが注目したのが、崇峻の”ボヤき”を日本書紀が「詔(みことのり)」と記している点。
日本書紀が書かれた律令時代だと、天皇の「詔」は「必ず実施される」「重要な指令」「手順を踏んで法制化される」という重いものなので、その時代なら馬子には死刑判決が出たも同然。
だが、崇峻天皇の時代にはそんなルールはまだないので、これは日本書紀が律令時代の論理で書いた「潤色」、作り話だと中村さんは言われるわけ。
(崇峻天皇が眺めた奈良盆地)
しかも、そもそも「大臣(馬子)が大王を殺害するということは、自らの存立基盤を否定すること」であり、もしも馬子が現体制を否定しているのなら「崇峻を殺害した後に、馬子みずからが大王にならなければ意味がありません」。
なので中村さんの結論は、崇峻は「若くして病死したのか、事故死したのか」「猪の話に関連を持たせて想像すれば、山に狩りに出かけ、その時に事故に遭い、その時の怪我がもとで亡くなった」。
馬子の天皇殺しが事件後まったく問題にされていないのは、事件そのものが馬子を悪人に仕立てたい日本書紀の潤色(作文)で、実際の崇峻天皇は悲運な死を遂げたものの、立派な天皇陵に葬られたフツーの天皇・・・。
・・・うーむ、あくまで感覚的には、だが、人間の織りなすドラマとしては、中村説にすごく説得力を感じるなぁ、ぼくは。
厩戸皇子は摂政になっていない
写真は推古天皇が即位した「豊浦宮(とゆらのみや)」跡といわれる、明日香村の「向原寺」。
その一帯が蘇我氏の本拠地であることから、推古と馬子の強力なタッグの証として語られるが、そこでも、愛する竹田皇子をできるだけ早く即位させたい母・額田部王(推古)と、愛娘「刀自古(とじこ)郎女」を嫁がせた厩戸皇子の即位を目論む馬子の思いがぶつかって、見えない火花を散らしていたようだ。
だが、今度は馬子のほうが折れてしまう。
日本書紀は、額田部王が初の女帝として即位して、息子が成長するまでの時間稼ぎを始めると、厩戸皇子はそれを補佐する「摂政」に就任したのだと書く。
だが中村さんは、若干19歳の厩戸皇子が、39歳の老練な政治家・推古天皇を補佐したなんて、無理があると言われる。
それならむしろ、厩戸皇子が即位して、(藤原氏のように)馬子が摂政になったほうが自然ではないのかと。
んで、ここで中村さんが比較のために持ち出してくるのが、持統天皇を「太政大臣」という役職で補佐した前天皇(天武)の子「高市皇子」。
高市皇子の場合は、補佐官になるには「年齢が十分」「天皇にはなれない母親の出自(宗像氏)」「持統即位に高市皇子の協力が必要」なんて条件が揃うので、太政大臣就任は「必然性が高い」。
だが、一見類似する立場に見える厩戸皇子はといえば、摂政になる「必然性がまったくない」のだという。
①まず、年齢が充分ではありません。むしろ厩戸が大王に就いて、誰かに補佐してもらうほうが自然です。
②次に、母親の出自は(※即位には)充分です。母の間人王后は、王女です。
③額田部に対する反対勢力はなく、むしろ当時の最大勢力である蘇我馬子は、厩戸の妻の父でした。ですから、ことさら厩戸の協力は必要ではありませんでした。
(『女帝推古と聖徳太子』中村修也/2004年)
日本書紀としては、持統天皇の父・天智天皇を最大限に称えるために、蘇我氏を悪役に描かなければならない。
そこで馬子の功績を薄めるために発案されたのが、厩戸皇子の「立太子」と「摂政就任」だったのではないか———というのが中村さんのお考えだ。
聖徳太子が夢見たもの
写真は言わずと知れた「法隆寺」の五重塔と金堂。
この日、先に参詣した「東大寺」は中国人観光客が群れをなし、さながら動物園の賑わいだったが、斑鳩は静かで凛とした空気が流れていたな。
さて中村さんによれば、馬子としては即位した厩戸皇子と、わが子・蝦夷のコンビによる政権運営の構想を抱いていたのだろうが、現実には推古天皇の即位を認めた時点で、厩戸皇子はその次の「大王継承権」を放棄していたのだという(竹田が継ぐから)。
ところが、推古天皇のあとを継ぐはずだった竹田皇子は、推古3年ごろ、あっけなく薨じてしまったのだ。
なんとも気の毒な推古天皇だ。
んで、そうなると「大王候補者は厩戸しかいないような状況」が生じてきて、推古天皇にも皇位に執着する理由がなくなっていたわけだが、それでも厩戸皇子は即位のそぶりを見せず、それどころか「馬子の甘言に乗って、知らぬ間に王位に就いている」ような未来を避けるかのように、斑鳩への移転を決意してしまう。
その目的は、その地に「斑鳩学園都市」を建設するためだった、と中村さんはいわれる。
(法隆寺・大講堂)
実は推古天皇も、厩戸皇子には自分の孫娘(橘大郎女)を嫁がせていて、親子ほども年齢の違う二人の間には、二人の子供が生まれている。
てか厩戸皇子には他にも3人の妃がいて、子供の数は全部で14人だ。
また厩戸皇子は新羅との戦争にも関与していて、実の弟を将軍として送り出している。
つまり厩戸皇子は「女人禁制的な宗教性」などには囚われておらず、絶対平和主義的な聖人君子でもなかった。
———どうやら太子、じゃなくて厩戸皇子がみていた仏教は、ぼくらが知る「宗教」ではなかったようだ。
中村さんによれば、当時の仏教は「最先端の文化であり、学問体系であった」し、金銅仏の輝きは「最先端のテクノロジー的なイメージ」だった。
寺院は「現代の総合大学」で、厩戸皇子は「斑鳩の地を学問・文化のメッカ」にしようとしたのだろう。
厩戸皇子の建てた「斑鳩寺(法隆寺)」が「大学本部」で、総合的な学問を行い、「法起寺」や「法輪寺」は「各学部の建物」で、専門的な単科を担う———そんなイメージで中村さんは語られている。
(法隆寺・中門)
百済や新羅を追い越して、中華帝国に追いつくような学問の殿堂を!と厩戸皇子が言ったかどうかは定かでないが、馬子が自分の建てた「法興寺(飛鳥寺)」のために招いた二人の僧侶を、厩戸皇子の仏教の「師」にしている関係からみて、厩戸皇子の活動が「馬子の後援のもとに行われていた」可能性は高いと、中村さんは書かれている。
聖徳太子といえば「仏教界の恩人」として語られることが多い存在だが、その実際は「東大総長兼文部科学大臣」といったところだったのだろう、とのことだ。
この中村修也著『女帝推古と聖徳太子』は、プロの学者が書いたものなのに人間ドラマがめっちゃ面白くて、額田部王の穴穂部皇子への憎しみとか、「誰が天皇の盾か!」と叫ぶ物部守屋の絶命シーンとか、名場面多数。
そしてそんなドロドロの政界から、学問こそが人間を救うのだ…と誓って、爽やかに去っていく厩戸皇子・・・NHKの大河でやらんかなー(笑)。
つづく