東北の国造たち

〜鹽竈神社と雷神山古墳の謎〜

鹽竈神社の謎

鹽竈神社

2024年夏に参詣した、宮城県塩竈市の「鹽竈(しおがま)神社」。


上の写真だと、向かって左が表参道に正対する「左右宮」で、左宮に「タケミカヅチ(武甕槌神)」、右宮に「フツヌシ(経津主神)」を祀る。

んで向かって右が、主祭神の「シオツチ(塩土老翁)」を祀る「別宮」。


公式サイトによれば、「別宮」とは「特別な」社という意味なんだそうだが、それはもっともな説明で、もともと鹽竈神社ではタケミカヅチやフツヌシを祀ってた記録はないそうで、1693年に仙台藩主の伊達綱村さんが現在の三柱に定めて以来のことだという。


それまでは「ウイジニ・スイジニ」(新井白石)やら「アジスキタカヒコネ」(『和漢三才図会』)やら、諸説あったようだが、学生社『鹽竈神社』(1971年)を著した押木耿介宮司は、もともとはフツーに塩釜の土着神「鹽竈大神」が祀られていたのだろうと書かれている。


その土着神に記紀のシオツチが充てられたというわけだが、本来の主神が後来のタケミカヅチ・フツヌシにセンターを譲って脇にどいている状況は、ぼくには武蔵国一宮・大宮氷川神社のスサノオとアラハバキの状況を思い起こさせたが、それはまぁ、ただの思いつきだな。

境内案内図より抜粋

(境内案内図より抜粋)

祭神が曖昧な原因には、これほどの大社にも関わらず、鹽竈神社が「延喜式神名帳」に名前の記載がないこともあるようだ。

なので927年当時の鹽竈神社については、祭神の数さえ不明だというわけ。


ところが不思議なことに、延喜式より107年も古い「弘仁式」の「主税式」には鹽竈神社の名が記載され、それも正税から一万束もの祭祀料を受けていたという大変めでたい記録があるのだという。


ただそれだと、鹽竈神社は確かに大社として存在していたことが明らかなのに、どういうわけか「式外社」だったという話になるわけで、謎はかえって深まるばかりでもあるという・・・。

雷神山古墳は誰のお墓か

雷神山古墳

こちらの写真は、宮城県名取市で見学した前方後円墳で「雷神山古墳」。

墳丘長168mは東北地方ではナンバーワン、全国でも56位だ。


築造年代は4世紀末というから、西暦でいうと400年ごろで、中央では第15代応神天皇の御世(長浜浩明さんの計算で在位389−410年)にあたる。


当時、名取市から仙台市にかけては古墳文化が隆盛で、雷神山古墳のすぐ近くには「飯野坂古墳群」という5基の前方後墳を中心にした葬地の造営がはじまっていたし、名取川を越えた仙台市若林区にも「遠見塚古墳」という110mの前方後円墳が築造されている。


おお〜、ヤマトの北進もいよいよ仙台平野にまで到達したでござるか〜と感心したぼくらだったが、問題は、これら仙台平野の古墳たちの被葬者が、皆目見当がつかないことだ。

名取市歴史民俗資料館のジオラマ

(名取市歴史民俗資料館のジオラマ)

普通、古墳時代の「地方」を考えるヒントとされるのが、平安時代初期の9世紀に成立したとされる史書『先代旧事本紀』に収録された「国造本紀」で、それによれば古墳時代の福島県には、常磐道「浜通り」に菊多・石城・染羽・浮田・亘利という国があり、東北道「中通り」には白河・石背・阿尺・信夫・伊久という国があったと記されている(下の方に地図ありマス)


ところがその9世紀に書かれた国造本紀には、4世紀末に東北最大の前方後円墳が造られた仙台平野についての言及が、全くない。

国造本紀によるなら、その頃の仙台平野に「国造」はいなかったことになるわけで、んじゃその古墳、いったい誰のお墓なんよ?というわけだ。


・・・ま、この件についてはプロの先生方もお手上げという話なので、ぼくらが考えるだけ時間の無駄。


ただ、雷神山古墳の誕生に至るまでの道筋については、ある程度まで把握できてきたので、折角なのでここで紹介しときたい。

茨城県・久自国造と梵天山古墳

梵天山古墳 茨城県教育委員会

(梵天山古墳 茨城県教育委員会)

まず、福島の浜通りに向かう常陸国には、西暦300年ごろ、墳丘長160mという「梵天山古墳」が造営されている(常陸太田市)。


こちら、わが国初の巨大前方後円墳として知られる奈良県桜井市の「箸墓(はしはか)古墳」と同じく前方部が「バチ型」の墳形を持っていて、出土した土器も畿内の土器と相似性があるんだそうだ。

つまりは被葬者は、畿内出身の人である可能性が高い。


梵天山古墳が造営された常陸国北部では、弥生時代後期には墳墓をつくる習俗が認められず、いきなり巨大な古墳が造られたというのが実情らしい。

被葬者を在地の首長だと考えるのには、チト無理がある話だというわけ。

前方後円墳とはなにか

ちなみに梵天山古墳が築造された3世紀後半の時点では、これより大きい古墳は「箸墓古墳」(290m)と京都府の「椿井大塚山古墳」(170m)しか存在せず、全国3位。

当時は先進地域だった吉備の「浦間茶臼山古墳」でも墳丘は138mしかなかった。


なので、梵天山古墳が意味するものは、昭和のころ通説とされた「畿内に成立した前方後円墳が、時間をかけて徐々に各地に波及していく。西日本各地にくらべると東国は遅れる」の完全否定だと、考古学者の広瀬和雄さんはいわれる。


箸墓古墳の築造年代には諸説(250〜300)あるが、椿井大塚山古墳は3世紀末が定説らしいので、梵天山古墳とは「同時多発的」に造られたことになるというわけだ。

先代旧事本紀

なお、国造本紀によれば、第13代成務天皇(同320−350年)の御世に、物部氏の「船瀬宿禰」なる人物が、初代の「久自国造」に任命されたという。


船瀬宿禰は、第10代崇神天皇の側近でニギハヤヒの6世孫「イカガシコオ(伊香色雄)」の3世孫だということなので、畿内出身の可能性は高いと思う。

ただ、320年以降に国造に任命されたという船瀬宿禰のお墓が300年に築造では、年代的にはまるで合ってないが…。

栃木県那須国造と駒形大塚古墳

駒形大塚古墳

こちらは2022年春に見学した栃木県那須郡の「駒形大塚古墳」で、墳丘長60mの前方後墳だ。

那須の北には東北への玄関口、「白河の関」がある。


広瀬和雄さんによれば、那須ではそれまで「未開の荒野」だった無人地帯に300年頃、突如として「駒形大塚古墳」が築造され、以後100年間に全部で6基の前方後墳が造営されたのだという。


もともとが無人の荒野なので「在地勢力の発展や地域の自律性」は議論の埒外で、前方後方墳の文化をもった人たちが集団で移住してきたと考えるのが自然な発想だという。


国造本紀には、第12代景行天皇(在位290−320年)の御世に「建沼河命」の孫「大臣命」が初代那須国造に任命されたとある。


建沼河命は、第10代崇神天皇が東海地方の平定に派遣した四道将軍「武渟川(たけぬなかわ)別」の異名と見られているようで、その孫の代には東海から関東平野を抜けて、栃木県最北の那須にまで達していた―――んだろうか。


なお中通りでは、4世紀後半になっても83mの前方後墳「大安場1号墳」(郡山市)なんてのが造られていて、「円」でなく「方」を選ぶ理由があったような印象があるが、むろん詳細は不明だ。

福島県・会津の杵ガ森古墳

杵ガ森古墳

一方、4世紀の100年間に「円」と「方」を両方とも築造していたのが会津地方で、ここには「方」から「円」へ、みたいな単純な流れは存在していなかったようだ。


上の写真はそんな会津でもっとも古いとされる「杵ガ森古墳」で、西暦300年頃に築造された45mの前方後墳だ。

会津坂下町ではこの「円」を皮切りに、以後「円」と「方」を交互に造営していく展開が見てとれる。


驚くべきは、現在でも陸の孤島のような会津盆地なのに、最古の杵ガ森古墳は、やはり「箸墓古墳」と同じバチ型の前方部をもち、6分の1の類似形だということだ。

どうやら西暦300年までには、ヤマトの影響下にある集団が移住してきていたらしい。

東北古墳研究の原点

しかも、地元の考古学者・辻秀人さんによれば、会津坂下町から出土した土器や住居跡などは、遠い北陸の能登地方と極めてよく似たものばかりなのだという。


つまりは能登の人たちが、はるばる阿賀野川をさかのぼって会津盆地までやってきて、そこに箸墓古墳のミニチュアを造営したと・・・それも西暦300年より以前にだ!


古事記には、北陸道を進んだ将軍「大毘古(大彦)」と、東山道を進んだ将軍「建沼河別(武渟川別)」の親子がバッタリ再会した場所なので、「相津(会津)」という地名になった―――という説話がのるが、北陸から会津盆地に移住した集団が、現実にいたというわけか。


なお、東北1位は名取市の雷神山古墳(168m)だが、2位は会津の「亀ヶ森古墳」(129m)、3位も会津の「会津大塚山古墳」(114m)ということで、当時の会津がかなりの人口を擁した大都会だったことがよく分かる。二基とも築造は350年ごろ。

いわき国造と玉山1号墳

玉山1号墳

浜通り(常磐道)に戻って、写真は350年ごろに築造された112mの前方後墳で、いわき市の「玉山1号墳」。

残念ながらお寺の裏山扱いになっていて、このパターンは登ってもただの山でしかないので、道路から看板を撮って終わり。


国造本紀によれば、当時のいわき市には「石城国」が置かれ、第13代成務天皇(在位320−350年)の御世に「タケコロ(建許呂)が初代の国造として着任したという。


タケコロは、アマテラスとスサノオの「うけい」から3番目に生まれた男神・アマツヒコネ(天津彦根)の末裔ということで、詳細は不明ながら、高貴な血統として東国各地の国造の祖となった人物だ。


ただ、古事記には石城国造等の祖として、神武天皇の皇子「神八井耳(かんやいみみ)命」の名が挙げられていて、つまりは古代豪族「多氏」の支配地域だとしている。


多氏は常陸では、海岸沿いに南北に長い「那珂国」の国造を張っていて、もともとは那珂国に含まれていた「鹿島神宮」も、多氏を本来の祭祀氏族とみる歴史家は多い。


いわき市以北には式内社の「鹿島神社」の分布があるが、これを多氏が鹿島神を奉じて福島県に進出した証拠だとみる説があって、ぼくも、何となくタケコロより多氏の方がいわきの国造にふさわしい気がするが、これは単なる個人の印象。


ただ、常陸国風土記によれば、タケコロは神功皇后(355−389)にも仕えていたというので、350年ごろ築造の玉山1号墳の被葬者には該当しないだろう。

南相馬市の桜井古墳

桜井古墳

写真は福島県南相馬市に4世紀末(400年ごろ)に築造された「桜井古墳」で、74mの前方後墳だ。


常陸太田、いわきと「円」が続いて、ここに来て「方」というんだから、「円」と「方」の関係というか、意味は、現代人のぼくらには理解不能な何かなんだろうと思えてくる。


国造本紀によると、福島県の相馬界隈には「浮田国」があって、成務天皇(320−350)の御世に、崇神天皇5世孫の「賀我別(かがわけ)王」が初代国造に就任したという。


この賀我別王には、日本書紀に神功皇后49年(379年)と応神天皇15年(396年)の2回、百済に派遣されたと記される「鹿我別」と同一人物であるという説がある。

ただ、鹿我別は日本書紀には「上毛野君の祖」として登場しているのに、それより前の320−350年のどこかで相馬市に浮田国造として赴任したというのは、チト理屈に合わない気がしないでもない。


まぁ確かに、400年ごろ築造の桜井古墳の被葬者としてはタイミングがいい印象もあるが、日本書紀の鹿我別は、あくまで大豪族・上毛野君の総帥として、高崎市の「浅間山古墳」(172m)あたりに盛大に葬られたんじゃないかと、個人的には思うところ。

鹿島神の北進(浮田・亘理・信夫)

鹿島御子(みこ)神社

写真は、南相馬市に鎮座する式内社の「鹿島御子(みこ)神社」。

延喜式神名帳で陸奥国に記される、「鹿嶋」の名を冠する8社の式内社のうちの一つだ。

てか「鹿嶋」のつく式内社は、常陸の神宮を除けば東北地方にしかないので、鹿嶋からの人の流れは北を志向したということなんだろう。


なお、ここでいう「鹿島神」と、現在の鹿島神宮で祀る「タケミカヅチ(武甕槌)」は同じ神ではないようで、例えば正史で鹿島神をタケミカヅチとしているのは836年以降のことで、常陸国風土記などでは「香島天之大神」と呼んでいる。


『日本の神々 神社と聖地 12 東北・北海道』(1986年)にも気になる記述があって、鹿島御子神社で祀る「天足別(あまたりわけ)命」は、タケミカヅチが東国平定の際に後難を恐れて祀った「鹿島大神の御子神」なのだという。


つまり、タケミカヅチは鹿島大神とは別の神で、鹿島大神を祀る側の神だったということのようだ。

鹿島天足和気(あまたらしわけ)神社

こちらは「浮田国」の北に位置する「亘利国」に鎮座する式内社で、宮城県亘理郡の「鹿島天足和気(あまたらしわけ)神社」。

なぜか社名の「天足別命」は祀らず、タケミカヅチとその祖神・稜威雄走神、おまけ?で猿田彦命の三柱を祀っている。


延喜式神名帳の亘理郡は、北と西を「阿武隈川」に囲まれたエリアで、その中に3社の「鹿島神社」が鎮座する(鹿島伊都乃比気神社・鹿島緒名太神社・鹿島天足和気神社)。


吉田東伍は『地名辞書』に「阿武隈川の河口が蝦夷と畿内勢力の境界と考えられ、その北側の地は化外の民の住む場所として放棄されていた」と書いているそうで、要は、蝦夷へのニラミとして鹿島神が奉じられ、最前線で祀られていた―――という話なんだろう。

小田鹿島神社

こちらは「亘利国」「浮田国」から阿武隈川を西に渡った先にある「信夫(しのぶ)国」の式内社で、福島市小田の「鹿島神社」。

社伝には鹿島神宮からの勧請とあって、祭神は武甕槌命。


国造本紀によれば「信夫国」の国造は、白河・阿尺・亘理・伊久・染羽の国造と同祖だとあって、つまりは国造本紀があげる陸奥の国造のうちの10分の6が、同族関係にあるということ。これは多い。


んで彼らの同族には遠い広島県の「安芸国造」なんてのもいて、この安芸国造には蝦夷の集団の管理を任された「佐伯氏」だという説があるのだとか。

なので信夫国造ら陸奥の同族も、おそらくは元は蝦夷だった者が、ヤマトに寝返って登用され、今度は蝦夷を管理する役目を与えられた人たちだったんじゃないか―――というようなことが、谷川健一さんの『白鳥伝説』(1986年)に書いてあった。


多賀城の東門に置かれた「荒脛巾神社」と同様に、蝦夷をもって蝦夷を制する―――ということらしい。

東北の国造

(出典「弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍」より抜粋)

てなわけで、なるほど、阿武隈川から北は蝦夷の土地で、鹿島神はヤマトの尖兵となった多氏らの守護神として、阿武隈川の南に配置されたというわけかー、なるほどなー、などと感心しそうになるが、いやいや、問題は4世紀末に築造された東北最大の前方後円墳「雷神山古墳」は、その阿武隈川の北にあるということだ。


上の図の通りで、国造本紀は阿武隈川より北に、ヤマトの国造がいたとは書いていない。

だがそこに「雷神山古墳」があり「飯野坂古墳群」があり「遠見塚古墳」があるわけだ。


制度としてのいわゆる「国造制」は、継体天皇(在位507−534)のころに始まって、大化の改新のころに終焉したそうだが、雷神山古墳は西暦400年ごろの築造だ。

仮に被葬者は「国造」ではないとしても、168mもの大きさのヤマト式のお墓を実現できる、東北地方の最高権力者のはずだ。


それが誰なのか、全くヒントがないというのは・・・なんとも不思議なお話だ。